桶狭間の戦いに学ぶ経営 その1
私は『桶狭間の戦い』を検証すべく、
できるだけ合戦と時期と時刻も合わせて、
清洲城跡から桶狭間まで走ったことがあります。
研究ではなかなか明らかにされないことの多い合戦なので、
これは現場主義のコンサルタントとしては、現場踏査せねばなりません^^
信長が敦盛を舞って”いきなり”出陣したとのことなので、(基本的には「信長公記」参照)
私は、あわてて殿様を後追いする「足軽」という設定でスタート。
まず目指すは、最初の集結地点であった熱田神宮。
ここで、信長は後から追いかけてくる軍勢を待ち、集結させたとのこと。
(熱田神宮本殿)
距離で約13km。
そこまでは平坦で、大きな川もなし。
とはいえ、昔の人といえども、武器を持ち、具足をつけて、これだけの距離を走るとなるとかなりつらい筈。
少なくみても1時間は駆けっ放しなのだから。
そして、走りながらの実感は、
「かなりえらい(=しんどい)」
「なんで走らんといかんの?篭城ちがうの?・・・」(以上名古屋弁風^^)
であり、そこで実感を伴って気づいたのは、
かなり信長を信頼していなければ、前例もないような、
何も言わずにさきがけで出陣した殿を追い、
しかも圧倒的な兵力差のある敵に向かっていく気にはならない ということ。
「殿様は、勝手に先に行っちゃったんだからさ、追いつけなくてもしょうがないじゃん?」
「あ、ごめん、おれ足くじいちゃった。先いっといて~^^;」 などとなりかねない。
実際、熱田神宮に集まったのは、2000名とか、限られた数だったようですが、その限られた者たちは
熱田神宮まで駆けつけたのは、なぜだったのか?
信長は当時、「うつけ者」(バカ殿)だったとか、いろいろ言われていますが、
熱田神宮まで参集した家来たちは、信長の事をかなり厚く、信頼 していたのではなかろうか。
そうでなければ、一般的には篭城しかない状況で飛び出した、自殺行為とも言える進軍に追随は出来ません。
もちろんそれは同時に、命賭けて戦ってくれる者で、強行軍についてこれる者を、
自動的に選別したことになります。当時は、まだまだ領内にも反信長派がいましたからね。
一気に士気は盛り上がったと思われます。
それともうひとつ大事な発見が。
篭城?と思っていて、慌てて、十分な備えもなしに走ってくる者も少なくないでしょうから、
この熱田神宮か、この先の砦(さらに約8km先)において、兵に水と食糧を与える必要が出てきます。
これは必須です。
仮に総勢2,000名分、簡易的な食糧だとしても、それだけの人数分の食糧を当日、
急に用意できると思いますか?
コンビニはありません^^
当然ながら、事前に、食糧調達の手はずを整えておかねばならないわけで、
しかもそれを秘密裏にするわけですから、周到な準備なしには実現できなかったといえます。
つまり、桶狭間の戦いは、【兵站】の視点からみてみると、
思いつきによる奇襲ではなくて、かなり「計画的犯行」なわけです。
ちなみに私は、熱田神宮の境内でうどんかっこみました。兵站の必要性、実感を伴っています(笑)。
さて、この熱田神宮で、信長は自軍に対し強力な 「マインドコントロール」をしかけます。
(続く)