「あの時、この道を選んでいたら、どうなっただろう。」

   後悔する訳ではなく、未練がある訳でもないが、こう考えることはある。

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   小学生のとき、夏休みに「もし歴史がこうなっていたら」という自由研究をした。

   小学生らしく「関ケ原で西軍が勝っていたら、大阪が首都になっていただろう」とか、そういう自由な空想をした。

   かなり力を入れた自由研究だった。

しかし、その自由研究を提出すると、担任の教師は、
       歴史に「もし」は無いんだよ
と冷たく、まるでそれを考えることが非難されるべきことであるかのように言った。

   その時は、教師の言っていることの意味が分からなかった。

   なぜ「もし」を考えることが駄目なのか?
   その意味は、実は未だに分からない。

   歴史の「もし」を空想して楽しむことが、非難されるべきものと思わないから。

   教師がそう言った意味は、後で書く「決定論」の立場からのものなのかもしれない。

   単に「無益だ」ということなのかもしれない。

   ただ、教師が「歴史にイフはない」という言葉だけを知っていて、それを子供にドヤ顔で言った可能性もあると思っている。

   ていうか、おそらくそうに違いない(笑)

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   決定論とは、未来は既に決まっているという立場。

   古典的な物理学によれば、物の状態が分かれば、運動法則によりその未来が予測できる。

   これを「ラプラスの悪魔」という。

「もしもある瞬間における全ての物質の力学的状態と力を知ることができ、かつもしもそれらのデータを解析できるだけの能力の知性が存在するとすれば、この知性にとっては、不確実なことは何もなくなり、その目には未来も(過去同様に)全て見えているであろう」
(ラプラス「確率の解析的理論」)

   未来は全て決まっているのか...じゃあ、足掻いても無駄か。

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   このラプラスの悪魔に「待った」をかけたのが量子力学だ。

   詳しくは省略するが、量子の世界では、未来は確率的にしか決まらない。

   量子の世界においては、人間が観るまでは、物の状態は決まっていない。

   つまり、(人間がそれを観るまでは)未来は決まっていない。

   かつて、アインシュタインは、この量子力学に否定的な立場から「私が見ていなくても、月はそこにあるはずだ」と言った。

   しかし、量子力学からすると、僕が見ている月が夜空にあるのは、僕が見ている(観測している)からにほかならない。

   僕が見なければ、月は、姿を消して、例えば軌道の反対側に急に現れるかもしれない。

   とても不思議なことだが、真実らしい。

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「人間が観測して決まる」と書いた。

  これについて、可能性のうち一つに「決まる」というより、全ての可能性が実現してそれが「分岐する」という考え方がある。

人間が観測する
→全ての可能性が実現し、世界が分岐する
→分岐した世界にはそれぞれ自分がいる
→その自分は、分岐した先の自分のいる一つの世界しか認識できない
→その人は、一つに決まったように思っている


   簡単に書くのは難しいな...

   なお、それらの分岐した世界は、それぞれ平行世界として存在することとなる。

   これを「多世界解釈」という。

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   この多世界解釈が正しいかどうかは自分にはわからない。

   ただし、不思議な量子の世界を合理的に説明するものとして、最近支持を集めつつあるようだ。

   気の遠くなるような膨大な数の平行世界がある。

   そこにそれぞれ「自分」が存在する。

   俄には信じられないが...

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   多世界解釈によれば、「もしも」の世界も現実に存在する。

   自分で認識できないだけだ。

   冒頭の話に戻すと、関ケ原で西軍が勝って大阪が首都になっている平行世界も存在するだろう。

  小学生に戻って、あのドヤ顔の教師に多世界解釈、平行世界の話をしてやりたい(笑)

「僕が教師に平行世界の話をする」、そういう平行世界もあるかもしれないな。