中国の歴史で明が滅亡したのは李自成が北京を占領し、明の崇禎帝が自殺した1644年。そして満州族の世相順治帝が即位して清朝が成立し、中国における漢民族の歴史が終わった。1644年は日本でいえば徳川家光の正保元年にあたる。実は、その前に明室は衰亡していた。明の滅亡は中国の大事件だ。何かが変わっていれば、中国は漢民族の歴史に幕をおろさなくともよかったかもしれない。中国人の歴史観には、つねにこの「問い」が潜んでいる。 朱舜水は1628年に生まれ、満州族のヌルハチ(のちの太祖)が明と開戦した時には19歳、李自成が乱をおこした時には29歳、後金が国号を清とあらためた時に37歳、江戸幕府が鎖国令を出した時には40歳。朱舜水は明朝の衰亡とともに人生を送ったことになる。 朱舜水を見ることは、17世紀前後の日本を世界史的に見ることになる。

 

  ヨーロッパは三十年戦争に突入し、東インド会社をつくったイギリスはインドを狙い、オランダはジャワにバタヴィアを建設し、さらに台湾や日本を窺っていた。ポルトガルは広州にマカオを建設し、ロシア人はエニセイスクやヤクーツクに城塞を築いてシベリア戦略をかため、北東アジアに進出しようとしていた。スペインはマニラを占領して、メキシコとマニラを結ぶガレオン貿易を開始した。また、ピューリタンがアメリカに次々に移住を始めていた時代でもある。 日本はこの時期に信長と秀吉の時代を終え、徳川幕府は鎖国体制に向かう。なぜ鎖国をしたのか、一言でいえば世界史がアジアを食べ尽くそうとしていたからであり、西力東漸の時期であった。すでに何度か日本を訪れていた朱舜水の進言もあったかもしれない。

 

  東アジア急変のなかで朱舜水が見たものは、愛国畏敬の気概を秘める実学者・朱舜水にとっては信じがたいことばかり。朝臣たちが腐敗し、それを諌めるべき儒学者たちが迂腐の学に堕していた。女真のヌルハチが満州を統一して後金を建国して明から独立していった。ヌルハチのあとのホンタイジが李朝朝鮮を服属させ、明の北方を蹂躙していった。農民は飢饉に苦しんで陝西に蜂起し、これを李自成が指導して数十万の軍としつつ西安を占拠すると皇帝を自称した。明室はこれを制圧しそこなって北京を失い、ついに崇禎帝は紫禁城を出て首をくくった。こんな前代未聞の事情を「文武全才第一」「開国来第一」とよばれた朱舜水が許せるはずはない。しかし舜水は、12回にわたる仕官の誘いを固辞した。適当に明室を利用する姦臣たちが許せなかった。舜水は「海外経営」を試みていた。浙江省の舟山を拠点に日本・安南のあいだを往来していた。そして「日本乞師」(にほんきっし)になる。

 

 朱舜水は、明の滅亡を匡救する志をもちながらも、ついに機会を得ず、中国・安南・日本の三角交易を試みて漢民族の中国の存続を密かに再来させようとしていた。このようなドラマを、日本人がもったのは佐久間象山や渡辺崋山や吉田松陰以前ではなかった。かれらは勤皇佐幕を超えるほど切羽詰っていた。その精神のドラマを体験した起源はどこか、それが朱舜水だ。そこに登場してくるのが鄭成功だ。 鄭成功は明室光復の大義を抱いて海外経営に乗り出し、父の鄭芝竜が清に降伏したのちも海上権を守って、連年大陸に反攻した。その間、日本に数度にわたる援助を期待したが成らず、厦門を奪ってここを拠点に明朝復興を志した。1658年に厦門を出発して北征の途についたときは、その軍士たちは「神兵」「天兵」と称えられたが、南京進撃は挫折した。この神兵を操って帝室回復の先頭をきった稀代の英雄・鄭成功その人が、近松門左衛門が人形浄瑠璃に仕立てた傑作『国姓爺合戦』の国姓爺だ。母は平戸の日本人だった。鄭成功が日本人の血をひいていることは、朱舜水が日本乞師になったのと合わせて、その後の日本人のアジア的歴史観に大きな影響を与えることになる。

 

 舜水はこの24歳も年下の鄭成功の北征に伴った。北征は南京奪還のための行軍であった。すでに60歳になっていた舜水にとって、この行軍はあまりにも難行であり、鄭成功との合意のもとに、援兵を求めて日本に渡る。七度目の日本であったが、舜水はそのまま日本に投化した。こうして舜水は日本に望みをかけて、生涯にわたって明室の回復を念願とする。国姓爺の鄭成功はあえなく39歳の若さで台湾に急死した。 朱舜水が最後に長崎に来たのは1659年の冬、江戸は明暦の大火が終わって、将軍家綱の時代。日本側の仲介者であった安東守約は、すぐさま舜水に自分の俸禄の半分を割いている。守約は舜水に惚れぬいていた。それほどの人物だった。明室を救おうとした大義の人・朱舜水の名はすぐ江戸にも届く。ここで動くのが水戸光圀、家綱の叔父、水戸黄門である。儒臣の小宅生順を長崎につかわして、東遊を勧めた。65歳になっていた舜水は何度かこれを固辞するが、ついに江戸に向かう。江戸に入った舜水を光圀は最上の敬礼をもって迎える。光圀は40歳。舜水の深い学識とその静寂で苛烈な人物におおいに惹かれた。明室の一書生と言いつつも、光圀の熱意にほだされ、しばしば水戸と江戸を往復する。

 

 光圀は水戸に学校をつくり、舜水を賓師としての指導者に迎えたかった。舜水は『学宮図説』を描いてこれに応え、光圀もこれに応じて寛文12年に彰考館を創建する。日本に経世済民の学が入ったのはこのときである。水戸学の確立もこのときから始まった。これらはまた、武士道の精神にもかかわっていった。光圀が企画した『大日本史』のすべてが朱舜水の示唆から始まっており、その全てが朱舜水の影響である。たとえば前田綱紀が狩野探幽に描かせた楠木正成父子の桜井の別れの図に朱舜水が寄せた賛ひとつでさえ、いまは湊川の楠公碑にも読める。この一事にその後の日本の歴史観を大きく左右する思想がひそんでいる。それまで日本人は、楠木正成の忠臣忠義の言動を存分に理解していなかった。評価する言葉をもっていなかった。これは明室を失った朱舜水によって教えられた思想だった。