タオル・手拭いについて思う -3ページ目

タオル・手拭いについて思う

タオル・手拭いについて思う

所謂主観という平面と所謂客観という平面とを同時的に成立すると仮定する動機[#「動機」に傍点]は併し、存在の意味上の連関[#「意味上の連関」に傍点]を解釈[#「解釈」に傍点]しようとする企ての内に横たわる。認識目的はこの場合、存在の変更・変革にあるのではなくて、存在の解釈にある。だから、元来技術的な存在変革の用具として役立つべき、自然科学的・自然的・諸主体の範疇の代りに、所謂主体とか所謂客観とかいう哲学としての哲学[#「哲学としての哲学」に傍点]の範疇から、田辺博士は事を始めるのである。博士は実践を地盤にして考えているから存在変革の精神を忘れないと云うかも知れないが、その実践が前に云った通り道徳的実践としての実践でしかなかったから、それは実践上の実践ではなくて解釈上[#「解釈上」に傍点]の実践でしかなかった。そういうわけで自覚の弁証法なるものは解釈の哲学[#「解釈の哲学」に傍点]の止むを得ない帰結であったのである。
 吾々は一般に解釈の哲学を観念論[#「観念論」に傍点]と呼ぶのであるが、解釈に於ては哲学は哲学としての哲学として、自己満足的な範疇の世界にまで、超越することが出来る。それが形而上学の世界なのである。解釈の哲学[#「解釈の哲学」に傍点]であるということが、即ち又その意味に於ける観念論だということが、吾々によれば形而上学の第二の規定[#「第二の規定」に傍点]である。