カシンです。これは、アタシ(50代・男)が、気がついたことを書くブログです。
最近の米国で問題視されてる「gender exploratory therapy」について書いている最中 (前回が「前編」) ですが。
書いていると、あれも説明しなきゃ、これも説明しなきゃ、前提を共有しないと話ができない。と、なかなか本題までいきません。延々と引っ張るような大げさな話ではないんですけど。
でもやっぱり背景説明をしないわけにはいかないと思うので、また脱線です。
「問題」の所在のひとつに思い至ったので、それについて書きます。
「呼び方」が
- 性同一性障害 (gender identity disorder)
- 性別違和 (gender dysphoria、2013 年 DSM-5)
- 性別不合 (gender incongruence、2022 年 ICD-11)
と「変わってきている」ことについて。
この「呼び方を変えます」が、誤解を生む、と思い至ったので、そこのところの説明です。
出生時に割り当てられた、「自分の性別」に強い違和感 (嫌悪感) を持ち。自認の性別でない体の部分を「切り落とさずにはいられない」ほどの状態が「性同一性障害」です (戸籍上の性別変更の特例がこれ)。
性同一性障害 MTF は、そもそも生まれたときから本人は女性です。性同一性障害 FTM は、そもそも男性です。体の作りが本来の性別に合わない作りになってしまったので、出生時に誤った性別を割り当てられた人です。
その概念を拡張して、出生時の性別ではない性別としてでなければ生きられない、と感じる状態を含めたのが「性別違和」です。切り落とす必要を感じてるわけではなく、社会的な性別の扱い=ジェンダーを自認の性別と一致させる必要を感じます。
さらに拡張して、出生時の性別と、自認する性別が異なっているけれども、それが必ずしも自身の「困りごと」ではない (社会が勝手に変な人扱いしてる) 場合も含めたのが「性別不合」です。
年々、扱う範囲が広がってきています。いろいろな状態のあり方を整理して、それぞれに有効な対応を考えようというような話です。
例えば「性同一性障害」に対して「性別不合だから社会が扱いを変えれば済む」という話では全然ありません。
性同一性障害なら切り落とすのが有効です。一方で、性同一性障害でない性別違和なら、自認の性で生きることを社会が認めるのが解決になります (切り落とすのは解決にならない)。
先日の、「戸籍上の性別変更に不妊手術までは必要ない」判決は。あくまで狭義の「性同一性障害」の話で。裁判所が、性同一性障害でない性別違和まで性別の変更を認めると踏み込んでいるわけではありません。戸籍法特例上の MTF は男性外性器を切り落とした人だし、FTM は乳房を切り落とした人です。切り落とした以上、出生時の性別で生きることは困難で、本人の望むところでもないし、そもそも出生時の登録が誤りだったことがわかったので、特例で書類上の性別変更を認めるという意図です。
切り落とさない性別違和については、法律上の扱いはまだ手付かずです (障害者差別解消法の合理的配慮に含まれる部分とか、性多様性理解増進法で「みんなで考えましょう」的になってることを除くと)。性同一性障害でない性別違和の人 (トランスセクシャルに対してトランスジェンダー) にまで、体の一部を切り落とすことをジェンダー変更の条件とするのはおかしいんじゃないの?? という話は、まだ法律上の議論にはなってません。
そして、そういった問題とはさらに別に。
そもそも「男」か「女」かを選ばないといけない社会が変われば、最初から問題にならない「性別不合」もある、ということです。書類上「男」だから男らしく振る舞わないといけない、「女」は女らしく、それもおかしい。そもそも「自分は男でも女でもない」人とか、「男らしい女」です、という人がいても。それは、ああそうですか。で済ませばいいはず。
そういう社会を目指すのがいいだろう。そういう話です。
でも、だからといって、「出生時に男とされたけど、自分は女性」という、「困りごとを持った性別不合=性別違和」のある人は、「ああそうですか」じゃ済まない。それはやっぱり社会的に「そうですかあなたは女性なんですね」までしないと、その人は生きていけない。
そういう、いろいろな問題があって、いろいろな解決策が必要。そのために「扱う範囲を広げてきた」という話が、「呼び方を変えます」と説明されることで、とても誤解されやすくなってる。ということに気がつきました。
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お読みいただきありがとうございました。