アタシ(50歳♂)が気ままに思いつきを書くブログです。お読みくださりありがとうございます。

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童謡なのに「荒城の月」みたいにおごそかな?歌、北原白秋-詩、山田耕筰-曲の「砂山」についてです。詩は文語調だったり「お星さま出たぞ」だったり、なんかちぐはぐです。謎。

と、前回書きました。

で、解決編です。

実は中山晋平自身が制作に関与した1931年のレコード音源がCD復刻されていて、「1960年代までロングヒットを続けていた」と読売新聞が紹介したのはこれと同系統でしょう。中山曲のレコードでは児童歌手に歌わせていて、これを聴くと詩の違和感は一気に解消されます。

実はこの詩は全体がまるごと「子どもの台詞」で、文語調なのは学校で習った難しい言い回しなのです。

ちょっと優等生の子ども (低学年) が、よく遊んだ一日の終わりに、ああ今日が終わるなあ、と目の前に見る情景を学校唱歌ばりに「海は荒海、向こうは佐渡よ」と歌い出します (中山曲では唱歌っぽいリズムの繰り返しになってます)。それが「日が暮れたから帰る」という自分事になるにつれて子どもの自然な言葉になっていって、「お星さま出たぞ」となっていくのです。

ギャップ萌え。子ども可愛い!!

2番も子どもの目から見た文語調の情景描写で始め、「すずめちりぢり、また風荒れる」まで順調に進みますが、それで自分も帰るんだった、と思い出した子どもが「みんなちりぢり」と一瞬口語になりますが、その直後、2番の結びでは「もう誰も見えぬ」と文語調を持ち直します。でもここは暗に「もうあたしも帰る!」の意味です。

ギャップ萌え。子ども可愛い!!

2番の最後で帰るんだった、と急に思い出したら、3番はもう子ども全開で、「かえろかえろよ」、「さよならあした」と子どもの決まり文句を発しつつ、すずめや海にも挨拶しながら帰ります。「ぐみ原」を抜けた後、走って帰るのが目に浮かぶようです。

北原白秋の詩は、何のことはない、リアルな子どもを生き生きと描写したものでした。ちぐはぐな謎、ということではなかったのです。

アイドル童謡歌手のいた、戦後から1960年までの時代。こりゃ売れるわ。

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さらに想像力をたくましくすると、中山晋平の、ちょっと唱歌をおちょくった俗っぽい感じに対抗して、全編を芸術っぽい「良い童謡」に仕上げるのが山田耕筰の曲想だったんじゃないでしょうか。

それが、子どもが文語調の唱歌を習っていたことが忘れられた時代になって、山田耕筰だから、と過剰に芸術化されてしまったのが「懐かしの童謡」のおごそか「砂山」じゃなかろうか。ほんとは年寄りが懐かしかったのは中山晋平のかわいい子どもの歌だったのに。

…というのがアタシの「砂山」考です。

ちなみに「ぐみ原」その他、詩「砂山」の詳細については誰かが匿名で書いた

に詳しかったです。
(こんなところにもアマテラスが!!)

お読みくださりありがとうございました。