年末年始、グループホームに入所した認知症の義母とは過ごせませんでしたが、大人2名ずつ、15分間の面会をすることができました。
何か買って持って行く?と義姉に聞いたところ、「うなぎパイを渡したからいらないよ!」と言われたことを夫に伝えると、
「またうなぎパイ?あのうちはいつもうなぎパイだな。美味しいものを開拓しようという気持ちがないよね」と。
でも、うなぎパイは私も子どもたちも大好き。
東京に住んでいるとなかなか買えないので、私はむしろ毎回うなぎパイでうれしい。
けれども夫にはそれが、「積極的に人が喜ぶ美味しいものを探そうとしていない」「横着をしている」と思えてしまうようで。
私は性格的に冒険はせず、気に入ればずっと同じものを食べたい人間で、きっと義姉もそう。
しかし、その自分の価値観で良かれと思ってしていることが、人によってはそんな風に思われてしまうとは。
つくづく人の感じ方や受け取り方の違いとは興味深い。
とはいえ夫も夫で、言葉はキツイけれどそこに悪気なんがなく、ただ母のためにこだわったものを買ってあげたいと思っているだけなのだと思います。
そんな話を次男にしていたら、次男に、
「良いものを知っている人は、そう思ってあたりまえじゃない?」と言われ、ふと考えてしまいました。
それは誰にとっての「良いもの」?
結婚してすぐ、義母がまだ元気だったころ、義母が母にお歳暮でどこかの有名なお菓子を送ってくれました。
でも、そんなものを知る由もない母は、ただ「ありがとうございます。いただきました」としか言わかなかったのが、義母にはどうも気に食わなかった。
「あなたのお母さん、あれが○○のお菓子なんて何も分かっちゃいなかったわ。価値が分からない人に、何あげても同じね」と、後日義母に言われたのでした。
東京での生活も長くなった今は、人から美味しいものを頂く機会も増えたので、○○の、というブランドの価値だったり希少性を分かってもらいたいという義母の気持ちも分かるようになりましたが、それでも今も、ことさらに○○のナントカを強調する人がどうも苦手。
そしてこうも思うのです。
「良いもの」「美味しいもの」を気にしする人より、特に気にせず何でも美味しく食べられる人の方が、むしろ食の満足度が高いのではないかと。
そして、私たちは良いものに出会うと、それを人と共有したくなるけれど、みんながみんな、「良いもの」や「美味しいもの」を求めているわけではないということもまた、知らなければならないのだと。
ちなみに夫が持参した百貨店で買った義母の好きな豆菓子は、「豆は詰まるので食べさせられない」と、あっさり返されてしまいました。
人生も終盤に入り、もはやどんなこだわりや美味しさより、安全安心、食べやすさが優先であったことを夫も知ったのでした。
そして、昔はちゃんぽんのような具をごちゃ混ぜにした料理が苦手で食べられなかった義母も、今は味覚も分からなくなって来たのか、食事もおかずも味噌汁も、すべてご飯に混ぜてごちゃまぜにして食べてしまうと職員の方が話してくれました。
あんなにどこそこのナントカにこだわり、眉間をよせて、あれは不味そう、これも美味しくなさそうね、と好ききらいが多かった義母も、今は何でも美味しい、美味しいと、とてもいい笑顔でニコニコ食べるようになったのだなあと思うと、認知症のうれしい副産物だなと思うし、人生ってほんと上手く、帳尻を合わせてくるのだなあ。。と思います。