日本の諺ではないのですが、諺に
「健全なる精神は健全なる身体に宿る」
があります。
この言葉を聞かれた方もあろうかとは思います。
…
ローマの詩人ユウェナーリスの「風刺詩」
…
ローマの詩人ユウェナーリスの「風刺詩」
の言葉からですが、
これは必ずしも正しくない諺と解りました。
西洋人が持つ宗教や精神世界の感覚には
西洋人が持つ宗教や精神世界の感覚には
「輪廻転生」が存在しません。
→
為にスピリット(精神)とかソウル(魂)
→
為にスピリット(精神)とかソウル(魂)
に対する認識が誤っています。
→
肉体は死ねば終わりだが、
→
肉体は死ねば終わりだが、
その後は天国や地獄で暮らすので肉体は「一代限り」であり、
そこに誤った概念が入り込んでいると言えます。
→
精神は言うならば「神」です。
この諺の通りならば、
健全な身体の持ち主で無い身体障害者
精神は言うならば「神」です。
この諺の通りならば、
健全な身体の持ち主で無い身体障害者
の場合には正しくない神が宿ることになります。
→
昔、仏教でカルマが盛んに言われていた頃には、
そうした身体不自由で生まれたお子さんは
前世で悪業を積んだ結果とか、
親の因果が子に報いとして現れた
と言う方達がありました。
→
→
私は神霊世界を見聞していて、
カルマとは
=魂の修業の過程としても出て来る現象
であることが解りました。
=しかし、自分が犯した罪のカルマでは無い
他の人のカルマを解消する為の菩薩行
として出る場合もあるのです。
これを言うのであれば
「健全な心の持ち主には
大本教と呼ばれる宗教が出てから、
=魂の修業の過程としても出て来る現象
であることが解りました。
=しかし、自分が犯した罪のカルマでは無い
他の人のカルマを解消する為の菩薩行
として出る場合もあるのです。
これを言うのであれば
「健全な心の持ち主には
正しき神が宿る」
なのです
それは、霊がよく見えるからと言って、
その人が健全な心の持ち主かと言いますと、
必ずしもそうではありません。
→
五体は何一つ不自由の無い健全者で、人品は卑しい
それは、霊がよく見えるからと言って、
その人が健全な心の持ち主かと言いますと、
必ずしもそうではありません。
→
五体は何一つ不自由の無い健全者で、人品は卑しい
が霊的な事柄はよく見える。当てる方があります。
俗に言う「動物霊」とか低級霊に支配されることで、
霊的なものがよく見える当てられるなのです。
低級霊ほど下俗的な事に強いのです。
→
低級霊ほど下俗的な事に強いのです。
→
その証拠として、
お釈迦様やイエスや弘法様や日蓮さんなどの高僧・名僧は
誰一人としてスピリチュアル等に走ってはいないでしょう。
ですから、 霊能者と呼ばれる人を見る時、
まずその人柄を見る必要があります。
人柄が悪い人には相談しないことです。
→
ですから、 霊能者と呼ばれる人を見る時、
まずその人柄を見る必要があります。
人柄が悪い人には相談しないことです。
→
単に奇跡的な現象を見せたり、
病気治しとか当て物が得意だから
正しい御神霊が背後にあるということではないのです。
→
確かに一時の苦を取るだけの話であれば、
大金さえ払えば邪神邪霊でも解決してくれます。
霊がよく見える。
霊がよく見える。
霊の声がよく聞こえるで
人格が優れるではない
人格が優れるではない
大本教と呼ばれる宗教が出てから、
人を「霊(ひ)止(と)」と言うようになりましたが、
→
「霊止(ひと)」とは
=
=
人の肉体に魂や霊を入れさせている「容器」
の意味です。
→
それによって「霊主体従」と「体主霊従」が説かれますが、
それによって「霊主体従」と「体主霊従」が説かれますが、
大本教の出口王仁三郎聖師の「霊主体従」が正しくて、
「体主霊従」は悪だとする論理は
必ずしも正しい論理とは言えなかったのです。
→
→
何故ならば、
いくら「霊主体従」であっても、
その肉体を動物霊や低級霊の容器とさせて
霊的世界を語るのであれば悪であって、
霊が何一つ見えなくても
「世の為に人の為」にと尽くすのであれば、
正しき「体主霊従」者と言えるからです。
地獄に落ちていた霊の刑期を終えさせて、
この世に戻す時、「霊主体従」のままであれば、
またもや悪行を犯しかねません。
→だが、
肉体には勉学によって「理性」が働きますので、
その肉体がこの世の学びによって悪行を戒めて行くと、
その肉体に存在する魂も
過去の悪行を反省して魂が清まって来ます。
こうした場合は「体主霊従」の方が遙かに正しい
となります。
→
いくら「霊主体従」であっても、
その肉体を動物霊や低級霊の容器とさせて
霊的世界を語るのであれば悪であって、
霊が何一つ見えなくても
「世の為に人の為」にと尽くすのであれば、
正しき「体主霊従」者と言えるからです。
地獄に落ちていた霊の刑期を終えさせて、
この世に戻す時、「霊主体従」のままであれば、
またもや悪行を犯しかねません。
→だが、
肉体には勉学によって「理性」が働きますので、
その肉体がこの世の学びによって悪行を戒めて行くと、
その肉体に存在する魂も
過去の悪行を反省して魂が清まって来ます。
こうした場合は「体主霊従」の方が遙かに正しい
となります。
→
なまじ霊的な事物が見える為に失敗している人達は
数多いのです。
霊感者千人居ても本物一人と言われるように、
直感!直感!ではダメなのです。
自分が見ている霊的事物が正しいとは限りません。
霊能者をされている方で、
数多いのです。
霊感者千人居ても本物一人と言われるように、
直感!直感!ではダメなのです。
自分が見ている霊的事物が正しいとは限りません。
霊能者をされている方で、
よく自分は神仏を封印するとか封印を解いた
と言う方達があります。
→
私は単なる不浄物霊ではなくて
本当の神仏を封印するとか封印を解くなどあり得るのか
と疑問を持っていました。
…
万物を創造した様な神やそれに準じる様な存在の神が
人間の分際で封印出来るなど、
どう考えても納得出来ることではありませんでした。
→が、
私も修業の過程で如来や観音菩薩も倒した
→が、
私も修業の過程で如来や観音菩薩も倒した
ことがあります。
もしもそれが本当の如来や観音菩薩であれば、
私に倒せるはずなどもありえないでしょう。
→
いくら如来だ菩薩だ明王だと出て来ても、
もしもそれが本当の如来や観音菩薩であれば、
私に倒せるはずなどもありえないでしょう。
→
いくら如来だ菩薩だ明王だと出て来ても、
邪霊や悪霊が化けている存在だから
私にも倒せたのではないかと思っています。
→
天使と称する者達もそうした一つです。
私は相手が神仏と呼ばれる存在に対しても
誠と正義感で立ち向かいますから、
霊は私の前にはなかなか出て来ません。
→
あんなやつの前にうっかり出たら何をしてくるか解らない。
私は相手が神仏と呼ばれる存在に対しても
誠と正義感で立ち向かいますから、
霊は私の前にはなかなか出て来ません。
→
あんなやつの前にうっかり出たら何をしてくるか解らない。
そうしたことが解っているから出て来ません。
…
しかし修業時代は私の気を引く為に、
…
しかし修業時代は私の気を引く為に、
いろんな霊が出て来ました。
私が何も解らない知らない「ひよっこ」だったからです。
私の最初の師匠が私に言っておりました。
私の最初の師匠が私に言っておりました。
【あなたはあまりにも賢(かしこ)過ぎて、
神様が近寄れない。もっとバカであるべきです】と、
私はそれを聞いていて何を言っているのだと思いました。
私はそれを聞いていて何を言っているのだと思いました。
…
バカになって何を言われてもハイハイと聞いているから、
世の中が悪くなって来てる。
相手が神仏でも立て直さなければならない時には、
神仏だからは通用しないという思いです。
→
それを私が賢いから近寄れないと言う神ならば、
それを私が賢いから近寄れないと言う神ならば、
こちらからそれを神とは認めないです。
→
私が2番目の師匠の元で
私が2番目の師匠の元で
神霊の正邪を判定する「サニワ」を知った時、
特定の神の御代に成ることは
【真理を求めて行く道】にはあらず
ということでした。
…
その神の言葉だけを信じて、
その神の間違いが
特定の神の御代に成ることは
【真理を求めて行く道】にはあらず
ということでした。
…
その神の言葉だけを信じて、
その神の間違いが
指摘出来なくなるです。
もしも、既存の神々が
「真理」を求めていた神ならば、
私が紐解く以前に
大本教神諭予告「九つ花」の解読が
出来ていたはずなのです
神々は
もしも、既存の神々が
「真理」を求めていた神ならば、
私が紐解く以前に
大本教神諭予告「九つ花」の解読が
出来ていたはずなのです
神々は
「真理」を軽んじていたのです
霊的な物が見えると、時には
霊的な物が見えると、時には
邪霊や悪霊によって見せられる光景があります。
そんな時に
霊的に見えたからと闇雲に走ってしまいますと、
必ず失敗します。欺されます。
→
そうした霊的映像を見せた霊は
何一つ責任を取ってくれないのです。
→
自分を欺しやがって、出来たらやっつけてやる
→
そうした霊的映像を見せた霊は
何一つ責任を取ってくれないのです。
→
自分を欺しやがって、出来たらやっつけてやる
と息巻いていても、相手は出て来ません。
欺され損に終わるのです。
以前、ブログの世界では
宇宙司令官○○○○のお告げとかマリアのお告げとか
ミカエルのお告げのような物が多数出回っていました。
だが、そのほとんどは消えたはずです。
以前、ブログの世界では
宇宙司令官○○○○のお告げとかマリアのお告げとか
ミカエルのお告げのような物が多数出回っていました。
だが、そのほとんどは消えたはずです。
長くても2年ともっていません。
→
自分は欺されていたと気づいた時、
自分は欺されていたと気づいた時、
もうバカバカしくてやっていられないからです。
→
だが、そうした嘘の名乗りに引っかかる者が多数出て、
だが、そうした嘘の名乗りに引っかかる者が多数出て、
自分が大教団の教祖様ともなれば、また話は違って来ます。
→
それは霊界は
未だ一つの絶対的な唯一神に支配されておらず、
群雄割拠の面があるからです。
→
それらの霊が悠々としておられるのは、
それは霊界は
未だ一つの絶対的な唯一神に支配されておらず、
群雄割拠の面があるからです。
→
それらの霊が悠々としておられるのは、
本当に起きるかどうかは誰も断定も出来ないことですが
【最後の審判】と呼ばれる物が起きた時までなのです。
私は 私に臨んだ声に
私は 私に臨んだ声に
欺されているのか欺されていないのか
は解りませんが、
その声は「この世の幕を引き」、
嬉し嬉しの世に立替る と述べられたからです。
→
もしその神が世の表に立っておられたならば、
もしその神が世の表に立っておられたならば、
末端の神々でも解らないはあり得ないと言えます。
→
だが、日本語ではその「神の言葉」の仕組み
だが、日本語ではその「神の言葉」の仕組み
がなされています。
そのことを既存の神々は気づかれていなかった。
それは覆せないのです。
人が何故に「霊止」であるのか?
そこにはそれなりの理由が存在しています。
人が何故に「霊止」であるのか?
そこにはそれなりの理由が存在しています。
人の肉体とは
長くても100年ほど生きれば死んで行きます。
→
しかし、魂は
しかし、魂は
腐らせたり潰したりしなければ永遠性を持ちます。
→
しかし、魂の磨きをしていなければ
その魂には黴(華美)などで
魂の表面に「毛物」が発生します。
そうなりますと、
いくら人の顔をしていても
その魂は「獣(毛物)」となります。
黴(かび)=黒+微
華美=肉体の外形だけを着飾ると、
魂には「黴」が発生します
(ここに、魂を磨く必要が生じます)。
→
しかし、魂の磨きをしていなければ
その魂には黴(華美)などで
魂の表面に「毛物」が発生します。
そうなりますと、
いくら人の顔をしていても
その魂は「獣(毛物)」となります。
黴(かび)=黒+微
華美=肉体の外形だけを着飾ると、
魂には「黴」が発生します
(ここに、魂を磨く必要が生じます)。
→
いくらスピリチュアルと称して、愛を贈りましょう
などと言っていても、
そうしたことを言っている貴方の魂は
「黴(かび)」だらけではないですかとなります。
→
そうした浮かれた方の背後はほとんど「浮かれ狸の霊」
そうした浮かれた方の背後はほとんど「浮かれ狸の霊」
と見受けられます。
→
お狸様と呼ぶ霊は面白いところが多々あり憎めない
お狸様と呼ぶ霊は面白いところが多々あり憎めない
のですが、そんな浮かれ狸霊に引っ掛かっていれば、
…
自分の魂は 神の「宝」とは成らず
「殻」玉と成ってしまいます。
踊る阿呆に踊らぬ阿呆。同じ阿呆なら踊らにゃソンソンで、
踊っているのです。
→
魂が人間の肉体のみならず、
動物体でも肉的器官を必要とするのは、
自分の【魂を浄化させる為】なのです。
そこに【輪廻】のみならず「転生」が起きるのです。
自分の魂を磨く(身学)
…
自分の魂は 神の「宝」とは成らず
「殻」玉と成ってしまいます。
踊る阿呆に踊らぬ阿呆。同じ阿呆なら踊らにゃソンソンで、
踊っているのです。
→
魂が人間の肉体のみならず、
動物体でも肉的器官を必要とするのは、
自分の【魂を浄化させる為】なのです。
そこに【輪廻】のみならず「転生」が起きるのです。
自分の魂を磨く(身学)
を忘れると、
それで終わりとなるのです
神之公園さんブログ『人に内在する良心神』
「諺の誤り 健全な心の持ち主には正しき神が宿る。
覚醒剤や精神破壊による幻覚幻聴と
本来の霊懸かりの幻覚幻聴の差は【紙一重】」
2016.02.26 より抜粋
それで終わりとなるのです
神之公園さんブログ『人に内在する良心神』
「諺の誤り 健全な心の持ち主には正しき神が宿る。
覚醒剤や精神破壊による幻覚幻聴と
本来の霊懸かりの幻覚幻聴の差は【紙一重】」
2016.02.26 より抜粋
ここまでお読み頂き、有難うございました。
労働は日々過酷かと思います、どうぞ休日にはゆっくり
体を休めて下さい。
良い休日をお過ごしください。
惟神霊倍坐世 かんながらたまちはえませ。