だが、
そんな「真理」を紐解いて教えて、
いったい誰が喜ぶのかです
今、溺れている者は助かりたいと必死になって
ex五井昌久師も
一生懸命「真理」を説こうとされました。
病などはカルマが消えて行く過程だ
スピリチュアルで
ですから、創造神は
私達にその「自然の恵み」に対して
神之公園さんブログ『人に内在する良心神』
「創造神とは病気治しや困り事相談の神ではない。
自分の救いや利益を求めるは勘違い。
創造神には仕え奉る」
2016.02.16より抜粋
今、溺れている者は助かりたいと必死になって
「わら」をも掴むです。
そんな時に、
そんな時に、
真理は「人には良心神が内在する」です
と説いて回っても、誰がそのことに耳を貸すかです。
今溺れている者にすれば、
助けてくれる者が「悪魔」であれば、
それが悪魔であってもそれにしがみつく
なのです。
ex五井昌久師も
一生懸命「真理」を説こうとされました。
病などはカルマが消えて行く過程だ
と説かれています。
→
しかし、現実には
→
しかし、現実には
「わら」を掴む人達を見るならば、
それを助けようとすれば 自分が悪魔と契約して、
その力をもってしか助けてやれない
があります。
→
カルマの解消を諦めた代償です。
→
その「心の葛藤の中において」、
→
カルマの解消を諦めた代償です。
→
その「心の葛藤の中において」、
悪魔に自分の魂を売る決心をされたのだ
と思います。
→
五井昌久師御自身は
→
五井昌久師御自身は
悪魔的な人ではありません。
しかし、今溺れている者を多く救おうとすれば
自分の魂を悪魔に売るより道は無いなのです。
この日本では
この日本では
西洋の唯一神信仰の一神教ではなくて、
多神教信仰が行われています。
→
→
そこには神とは
=自分に「現世御利益」を与える存在が神であり、
=自分に「現世御利益」を与える存在が神であり、
=「自分が困っている時に助けてくれるのが神」だ
という間違った教えが入り、
=
蛇霊や狐霊や狸霊や猫霊に「身変える」
という問題を引き起こしてしまいました。
→
→
私は溺れている人を助ける為に
自分の魂を悪魔に売るかと
聞かれれば、売らないと言います。
→
今を助けることが本人の為に成る
→
今を助けることが本人の為に成る
とは限らないからです。
助ける=カルマの解消にならないからです。
助ける=カルマの解消にならないからです。
自分が置かれた苦難の道は
=自分で耐えるのがカルマ解消の道なのです。
私は生まれてからこのかた、
私は生まれてからこのかた、
誰よりも苦難の道を歩いたとは言いません。
私以上に苦難の道を歩かれた方は
多数あるでしょう。
→
私の最初の師匠は若い頃、
私の最初の師匠は若い頃、
豊受様の御代修行の過程で
二度も自殺をはかっておられます。
神の世界に仕えるは容易なことではないのです。
→
神の御代をされている方は
神の御代をされている方は
スピリチュアルの方とは違い、
本物と呼ばれる方はどなたも
自殺をはかったほどの苦しみの道を
通過しているものなのです。
…
相談者以上に苦しみの道を
…
相談者以上に苦しみの道を
通っておられるものなのです。
相談者より強い意志で耐えて来たです。
→
私も自殺したいと追い込まれた口で、
私も自殺したいと追い込まれた口で、
泣いて涙も涸れ果てたまで
行ったこともあります。
…
ただ、私は
…
ただ、私は
自分に与えられた苦難の道は
神からの「試練」と切り替えられたので、
今は愚痴も出しませんが、
…
昔は 自分は 何でこんな目に
…
昔は 自分は 何でこんな目に
遭わなければらならいのだろう
と愚痴を出していました。
→
それを通過した時、
→
それを通過した時、
「あるがまま」があるのです。
→
口先で説く「あるがまま」など、
→
口先で説く「あるがまま」など、
何の教えにもなっていないのです。
…
体験・経験の苦しみを経て会得するのが
…
体験・経験の苦しみを経て会得するのが
「あるがまま」なのです。
私が子供の頃に臨んだ声は
私が子供の頃に臨んだ声は
自称「旧約聖書の神」と名乗っておられましたが、
私にあることを言われたのです。
=
それは、「人は刹那心に溺れると、
それは、「人は刹那心に溺れると、
自分の魂を腐らせる」です。
…
どんなに苦しくても
…
どんなに苦しくても
刹那心に溺れるなと言われたのです。
刹那心を持つと、
刹那心を持つと、
自分の魂を腐らせる
刹那とは
=
仏教用語で「短い時間」と言う意味ですが、
刹那とは
=
仏教用語で「短い時間」と言う意味ですが、
神が言われた「刹那心」とは、
=
「刹那主義」のことで、
…
過去や将来のことを考えずに、
=
「刹那主義」のことで、
…
過去や将来のことを考えずに、
今の時さえ良ければ(凌げば)
こと足りるという心です。
本質的な「せつな」は
=
=
苦しい、切ない、たまらないという
「精神的な苦痛」のことです。
私は殺すの「殺」と 刹那の「刹」
を見ていて、
=どちらも左辺は同じ字です。
→しかし
一般的漢字辞書を調べても
これは解りませんでした。
=これは「祟り」の意味で、
殺は=祟りをもって毀す。
刹は=祟りをもって罰するで
刹は=祟りをもって罰するで
「同意義」なのです。
=同じ言葉の意味かと思っておりましたが
やはり同じでした。
→
「せつな」いに入ると
「せつな」いに入ると
永遠の命である魂を
殺してしまうことになるのです。
せつないという愚痴的な言葉に
せつないという愚痴的な言葉に
「短い」の意味が秘められるのは、
=
この世の僅かな時間である
=
この世の僅かな時間である
「刹那」によって、
切ない、苦しいなどと言って
自分の魂を腐らせてはいけないから
なのです。
→
今、自分は苦しい、切ない。
→
今、自分は苦しい、切ない。
何とかしてくれ。
と言うことであれば、
自分の永遠の命である魂と
引き替えに「悪魔」信仰に入るか
自己の守護神を
表に出すしか道はないのです。
ただ、この守護神とは、
大本教や
ただ、この守護神とは、
大本教や
その後の新日本神道系教団で説かれた
「本守護神・正守護神・副守護神」
と、
スピリチュアルで
「守護天使とかハイヤー・セルフ」等と
言っている存在とは
まったく別物である認識は必要です。
もし、ハイヤー・セルフという言葉を
出すのであれば、
→
それは自分の魂と如何なる関係で
それは自分の魂と如何なる関係で
成り立つ存在のことか、
キチンとした説明が要ります。
→
しかし、
しかし、
ハイヤー・セルフという言葉を出す人で、
それに対して説明が出来る人が
一人も居ないということを 知るべきなのです。
→
単なる西洋スピリチュアルの受け売り
単なる西洋スピリチュアルの受け売り
から抜けていないのです。
…
それが出来ないのであれば、
…
それが出来ないのであれば、
スピリチュアルという言葉に
浮かれているだけだ ということなのです。
仏教用語のダルマ(真理)。
仏教用語のダルマ(真理)。
業(カルマ・軽い魔)。
刹那(せつないは短い時・瞬間)。
五六億七千万の「みろく」。
これらは全て
「日本語と呼ぶ言葉の仕組み」の中で
解読出来るようになっている事実
そのものに気づかないスピリチュアルでは、
最後の審判で行く先は
最後の審判で行く先は
【地獄の火の中】なのです。
スピリチュアルで
自称自分の前世は釈尊であったと言う教祖様が、
最後の時は 自分は
最後の時は 自分は
信者諸とも 地獄の火の中に行く
と言われておりましたが、
そうであってはならないのです。
創造神とは、
私達に 現世御利益を授けたり
創造神とは、
私達に 現世御利益を授けたり
病気治しをされる神 ではなく、
太陽のような「火」。雨のような「水」。
太陽のような「火」。雨のような「水」。
そうした私達の命を養う為の
「自然の恵み」を
授けておられる存在であって、
スピリチュアルで
自分に臨む等の簡易な神 ではないのです。
ですから、創造神は
私達にその「自然の恵み」に対して
金など一銭も言われないのです。
要求されないのです。
全て無償なのです。
その創造神に仕え奉る
その創造神に仕え奉る
「奉仕」とは、
私達一人一人が創造神に代わって
世の為に人の為にと
社会に奉仕として尽くすこと
なのです。
それは「特定の宗教団体」に所属する
ではないのです。
世の為に人の為にと
社会に奉仕として尽くすこと
なのです。
それは「特定の宗教団体」に所属する
ではないのです。
奉仕活動とは
無償ですることなのです。
創造神に仕え奉る人とは
世の為人の為にと「奉仕」する
それが【人に内在する良心神】の働き
無償ですることなのです。
創造神に仕え奉る人とは
世の為人の為にと「奉仕」する
それが【人に内在する良心神】の働き
神之公園さんブログ『人に内在する良心神』
「創造神とは病気治しや困り事相談の神ではない。
自分の救いや利益を求めるは勘違い。
創造神には仕え奉る」
2016.02.16より抜粋
ここまでお読み頂き、有り難うございました。
本日、日中は暖かく、春並みです。
朝夕は冷え込むので、小物等で、
体温調節には十分に対応して下さい。
節分も近くなりました。
「鬼は内、福は内」でお祝いしたいと思います。
良い1日をお過ごし下さいね。
惟神霊倍坐世 かんながらたまちはえませ。