小学6年生は私にとって大きな転換期になりました。
初めて普通の小学生になったからです。
学校の成績はオール3でしたが、
小学校に入って以来最高の成績でした。
悪いこともしなくなりました。
久保先生のおかげかもしれません。
久保先生は父兄からは非常に評判の悪い先生でした。
えこひいきをしなかったからです。
学級委員だろうが、
優等生だろうが、
気に食わないと平気で怒鳴りまくっていました。
図工の宮坂先生は、
態度が悪いとバンバン殴っていました。🖐️
優等生はたいてい態度が悪いものです。
生意気といってもいいかもしれません。
クラスの成績のよかった男子はほとんど全員、
宮坂先生の平手打ちの標的になっていました。👋
優等生にとっては誠にもって受難の年でありました。
私は学校で怒られることもあまりなくなったので気持ちよく学校に通っていました。🏫
習字に行き始め、
父の学校の先生に絵を習いに行き始めました。🖼️
父は私の将来をたいへん心配しておりましたので、
何とか手に職をつけさせたかったようでした。
父の学校は工業高校だったので、
機械がたくさんあって行くのが楽しみでした。
高校生のお兄さんがボタンをプレスしていて、
「君もやってみるかい」
と言われたので、
私もボタンをプレスしてみました。
模様のついたきれいなボタンが出来上がりました。
父の頭の中には、
絵と習字とボタンはひとつの線で結ばれていたようでした。
ボタン職人としての私の姿が父の目に映っていたのかもしれません。
絵を習うのがとても楽しみでした。
学校ではいきなり色をつけますが、
絵の先生はまず下絵を描かせました。🎨
構図を考える習慣をつけさせられました。
絵の世界に魅せられました。
習字は友達がいっぱいいたので楽しく通っていました。
学級委員の本山さんも一緒だったので腰が抜けそうでしたが、
学校では恐かった本山さんも習字のときは好意的でした。👩
小学校6年生にしてようやく学校の生徒らしい生活になりました。
せっかく和やかに暮らしていたのに、
最後になって父がけちをつけてしまいました。
父が行きつけの飲み屋の子が灘中学校だったので、
私に灘中学校を受けてみろとおおぼけをかましてしまったのです。
ご丁寧に願書まで取り寄せてしまいました。
父の言われるがままに、
久保先生に灘中学校を受けたいと言いました。
久保先生のヒステリーに火をつけてしまいました。
「厚かましいこと言うんじゃないよ。あんたが受かるわけないだろう。お母さんを呼んできなさい」
えらいことになってしまいました。
せっかく平和に6年生が過ごせると思っていたのに事件発生です。
母が来ましたら、
久保先生ではなくて、
副校長の橋爪先生が母に説得に当たりました。🧑🏫
「お母様、お気持ちはよく分かりますが、受験はよされた方がいいのではないでしょうか」
汗をかきながら橋爪先生は懇願しておりました。
要するに私が受けたら学校の恥になるということのようでした。
ところが母が何を血迷ったのか、
「うちの子供はみんな出来が悪くて、ひとりくらいいい学校に行かせたいと思いまして」
などと、
とんでもないことを言ってしまいました。
これには久保先生が黙っていられず、
「ひとりいい学校に行ければりっぱなものです。贅沢なことを言わないでください」
このときの母の姿は哀れそのものでした。
うつむいて、じっと目を閉じていました。
父の無知に腹が立ちました。
成績と相談して学校を決めるのであって、
行きたいから受けるのではないと言うことを、
どうして教師をしている父が分からなかったんだろう。
母はこんな事もあったりで、
死ぬまで、
私は本当はバカなんだと思っていました。
翌日、
受験を取り下げることを久保先生に伝えました。
当たり前だろうがという顔をしていました。
順調にいきかけていた小学6年生も、
最後で思いっきりどっちらけてしまいました。
ネルトリンゲンの月の石です。
宇宙開発競争がなくなった現在では、
月に行く計画はありませんので、
このような月の石は貴重かもしれませんね