大学に入学してまず担任が決まりました。
数学の小野先生でした。
大学の先生らしい、
アカデミックで品のいい先生でした。🧑🏫
医学部も最初の二年は二クラスに別れました。
最初の二年はいわゆる教養課程で、
医学的なことはほとんどやりません。
英語だの、
ドイツ語だの、
要するにどうでもいい勉強をさせられます。
とくにドイツ語は厳しくて、
ドイツ語だけで3人も教師がいました。
ドイツ語ほど苦しかった科目はありませんでした。
最初の二年はドイツ語で落第が決まると言っても過言ではありませんでした。
あれだけ勉強したドイツ語なのに、
ドイツへ行ったときは全く役にたちませんでした。
役に立たない勉強をよくもあれだけやらされたと恨んでいます。
教養課程のよかったことは、
他の学部と交流ができたことでした。
私は文学、
法学をとっていましたので、
文学部、
法学部の学生と一緒に授業を受けました。🏫
とくに文学部は女子が多く、
美人が多かったので楽しく授業を受けることができました。👩
確かに女子はきれいな子が多かったのですが、
競争率が激しく、
大学で彼女を見つけることはほとんど不可能でした。🙅♀️
医学部の女子は8人しかいなかったのですが、
彼女らに手を出そうという勇気のある奴はいなかったようです。
彼女らがあまりにも凛々しくて近寄り難かったせいだと思います。
学年主任は原沢先生でしたが、
かなりボケが入っているようでした。👴
英語のテキストを使っていましたが、
試験ではそれを丸暗記してこいと言いました。
100ページ以上もある英語のテキストを丸暗記できる人は、
日本に誰もいなかったと思います。
それでも試験は行われました。
試験の時にテキストを開くのは目立ち過ぎてカンニングは不可能だったので、
テキストを縮小コピーして、手の中に入る大きさにしました。
試験中にコピーを落とした奴がいて、
床に散らばってしまいました。
足でかき集めていましたが、
監督に見つからないように冷や冷やものだったと思います。
教養課程の試験なんてどんなにカンニングしてもいいと思っている奴が多かったので、
見つかりさえしなければ堂々とカンニングしていました。
ただ、
ドイツ語だけは、
カンニングは即留年という強い態度をとっていました。🈲
もちろん化学などの実習に関しては、
5分の1以上欠席すると落第です。
試験をうまく乗り切らないとすぐに留年してしまいます。
2年間で、
実に20人留年してしまいました。
経済学部の同級生に壇ふみさんがいて、
彼女は背が高い上に底の高い靴をはいていましたので、
いやが応でも目立ちました。
テレビではしとやかにしていますが、
大学時代の彼女は親衛隊を引き連れて、
大名行列のようでした。
生意気この上ない奴でした。
壇ふみさんは大学で勉強する気はほとんど無かったらしくて、
いつも教務課から呼び出されていました。
たいして売れてもいなかったので、
大学に来れないはずもなかったのですが、
とにかくやる気のない人でした。
壇ふみさんとは予備校も一緒だったのですが、
本当は獣医さんになりたかったそうです。
結局は大学もやめちゃったみたいでした。
芸能人は無理して大学へ行く必要はないようです。
サークルでいろんな学部に友達ができていい経験になりました。
西村は映画研究会の仲間でしたが、
完全な映画気違いで、
いい映画をたくさん作っていました。🎞️
私もたまに手伝いに行きましたが、
代々木公園が多かったでした。⛲️
映画コンクールで上位の賞を取っていましたが、
プロでも充分通じる力があったのに商社に入ってしまい、
もったいないことをしたと思います。
映画をやっていれば大成したと思いました。
商社は肌に会わなかったらしく、
その後証券会社に転職しましたが、
そこも2年でやめて実家に帰って不動産屋になってしまいました。
暇でしょうがないらしく、
いまだによく遊びの誘いが来ます。
お金には不自由はしてないらしく、
仕事もろくにしないで遊んでばかりいます。
私も遊んで暮らしたいな。
そうは言っても教養課程は時間がたくさんあって青春を謳歌できました。
進級がちょっとしんどかったけれど、
いろんなことができて楽しい教養課程でした。
入学したときに120人いた同級生も、
大学3年になった時には80人になってしまいました。
これからが本格的な医学部です。
教養課程であれだけ苦労したのに、
無事に医学部を通り過ぎることができるだろうか、
少し不安になりました。
お花の写真です。
お花は良いよね。