なぜ母が39才にもなって私を産んだのかは、
父も母も死んでしまった今、
とうとう分からずじまいになってしまいました。
私が7人目の出産ですから、
貧乏人の子だくさんとはよく言ったものです。
母は私を産むつもりはなく、
父の希望で堕胎しなかった、
と母が言っていました。
今なら、
39才で出産する人は珍しくありませんが、
60年以上前は、
39才の出産は母子ともに危険な賭けでした。
その危険な賭けを冒して(おかして)まで、
なぜ父はもうひとり子供が欲しかったのでしょう。
その時、
父は47才でした。👨
平均寿命が60才代だった時代でしたから、
私が成人するまで生きていられるとは、
思っていなかったようでした。
無責任じゃありませんか。
成人するまで見届けられないのに、
子供を作っていいものでしょうか。
まあ、
自分だけは長生きできる、
と思っていたのかもしれません。
でも、
その当時の平均寿命より短い、
63才で他界してしまいました。
兄貴たちでカリカリしながら子供を育ててきて、
何か物足りなさを感じたのかもしれません。
ゆとりを持って子供を育ててみたい、
と思ったのでしょう。
私は、
ふたりの娘を、
ネコのように可愛がって育てましたので、
物足りなさはありません。
でも、
もう少し躾けておくべきだったかな、
と反省しています。
父は、
小学校の時に私の勉学に見切りをつけ、
手に職をつけさせようとしました。
私も勉強は大嫌いだったので、
勉強なんかしなくてもいい仕事があるなら、
何でもしようと思っていました。
近所に、
テーラー中島という服屋さんがあって、
おじさんもおばさんもとてもいい人でした。👨🦳👵
中島のおばさんは、
私が高校へは行かないと思っていたので、
中学を出たら店に来なさいと言ってくれました。
跡継ぎが欲しかったんだそうです。
中島さんにはふたり子供がいて、
お兄ちゃんは東工大を出てビクターに勤めていました。📺
服屋をする気は、
まったくありませんでした。
妹さんは結婚していましたが、
ご主人が大工さんだったので、
その手伝いが忙しくて、
実家にはほとんど寄り付かなかったみたいでした。🪚
選択肢はいくつかあったのに、
高校へ進学してしまったので、
職人になることはできませんでした。
もっとも医者も職人ですから、
やっぱり職人になったと言えるのかもしれません。
父が私の将来に何を見ていたのかは分かりません。
ただ、
父と同じ、
学校の先生にはなって欲しくない、
と言っていました。🧑🏫
母は私の将来に何を見ていたでしょうか。
何も見ていませんでした。
これだけははっきりしています。
本人が言ったのですから。
お花の写真です。
しつこいかな?
そんなこと言うなよ