23歳の大学5年生の時に初めてヨーロッパへ行きました。

 

本の代筆をして旅費を稼ぎました。

 

私の大学では、勉学の妨げになると家庭教師は厳に禁じられていましたので、

 

日曜でもできる本の代筆をしておりました。

 

しかしさあ、この前YouTubeでうちの大学の学生が、

 

時給1万円で家庭教師をやってると自慢してやがった。

 

こんな奴さっさと大学辞めた方がいいよ。

 

医者の仕事を舐めてんじゃないかね。

 


とまあ、そんな事はどうでも宜しいのですが、

 

初めてのヨーロッパなので異常に興奮していました。


この年に初めて成田空港が開港しました。


土地の買収などいろいろと問題のあった空港でしたが、

 

羽田空港だけでは国際空港としては不十分ということで成田空港が作られました。

今は成田空港までは成田エクスプレスで行きますが、この当時は上野駅から京成電鉄で成田まで行きました。


今では成田空港は混雑していますが、この当時の成田空港は閑散としていてレストランもバーもガラガラでした。

 

バーにボーイスカウトの少年たちが楽しそうに談笑しておりました。


 

レストランで食事をしていると外国人が目立って多くなりいよいよ外国旅行をするのだなという気持ちが高まってきました。


航空会社はシンガポールエアラインで南回りでしたのでローマまで33時間かかりました。


現在ヨーロパに行くのに南回りというのはなく直行便が殆どです。

 

直行便だと11時間でヨーロッパに行くことができます。

 

隔世の感がございます。


しかし南回りはいろいろな都市を見ることができてそれなりに楽しい旅でした。


ただそれぞれの都市間ごとに食事が出るのでさすがに食べきれなくなってしまいました。


シンガポールエアラインの機内食は非常に美味しかったのですが、あまりに回数が多いとさすがに閉口しました。


最初に乗った席の隣に女の子が座っていました。


日本人かと思いましたが中国語の新聞を見ていましたので台湾人だと気がつきました。


名前を張さんと言い、可愛い女の子でした。


日本語と英語を混ぜてしゃべっていました。


東京の音楽大学の声楽科に通っているということで、池袋に住んでいると言っていました。


日本に帰ってからこの女の子とはしばらくお付き合いすることになりました。


食事に行ったり音楽会に行ったり、彼女の友人の呉さんと一緒に食事をしたり、

 

それなりにいいお付き合いだったのですが、それ以上にお互いの仲が進むことはありませんでした。

 

ときどき、風邪を引いたりすると電話がかかってきました。

 

音楽会に行った時は全て彼女が支払ってくれたので、申し訳ないことをいたしました。

 

音楽会のチケットは4000円しましたので、

 

「オレの分はオレが払うよ」

 

と言ったのですが、

 

「そんなことをしたら、私たちはもうお友達じゃなくなるよ」

 

と言って、固辞いたしました。


明るくて可愛い女の子でしたので、それはそれでいい思い出になりました。

飛行機が成田空港を出て3時間ほどで台北空港に着き1時間ほど空港のお店を見て歩きました。


空港から台北の町が見えましたが高い塔が見えました。


何年か前に見た台北で一番高い塔はここにはないはずですのでこれはホテルだったのでしょう。


空港のお店ではたいしたものは売っていませんでしたが書道の墨をいくつか売っていました。

 

義姉に墨を1本買いました。

 

安物でしたが。


荷物が増えるといけないので旅行の前半ではなるべく買い物を控えました。


飛行機に戻り次の目的地は香港でした。


台湾から香港までの短い区間でまた盛りだくさんの食事が出ました。


シンガポールエアラインは各区間でたっぷりと食事を出さないと気が済まないようでした。


この旅行のシンガポールエアラインの航空券が18万円でしたから、

 

値段からすると機内食はかなり豪華でした。


この時隣に座ったのが外為銀行頭取の大木さんでした。

私はこの時かなり眠たかったので大木さんに話しかけられるのは正直言ってかなり苦痛でした。


それでも大木さんはしきりに話しかけてきました。


大木さんは香港の会社に愛人がいるとのことで、

 

その時も愛人に会いに香港に行くと言っていました。


毎月のように愛人に会いに行くのだそうです。


大木さんの愛人は大木さんよりかなり若い女性だと言っていました。


男ですから誰でも若い女性が好きなのでしょう。


不倫は恥ずかしいものと私は思うのですが、

 

銀行の頭取くらいになると愛人を持つのはもはや社会のステイタスの一つなのかもしれません。


大木さんはいつでも銀行に遊びに来なさいと名刺を渡してくれたのですが、

 

とうとう一度も行くことはありませんでした。


この間にまた機内食が出ましたので、ワインでも飲んだら少し眠れるかなとワインを注文しましたが、

 

かえって悪酔いして頭が痛くなりました。

成田空港を出発してから2回目の機内食でしたがこの時は全部食べました。

 

シンガポールエアラインの機内食は非常に美味しくて、

 

スチュワーデス(今はCA)も親切で美人がそろっていましたので、

 

航空会社としては超一流だと感じました。


大木さんの話は金融関係の話が多くてほとんど分かりませんでしたが、

 

円高は日本にとっていいことだと主張していました。

 

まさか、こんな円安になるとは思わなかったけど。

 

プーチンのせいかな?

飛行機は香港の啓徳空港に向かって下降し始めました。


高層ビルの中を突っ切っていく飛行機を窓の中から見ると、

 

よく高層ビルに衝突しないものだと怖くなりました。


現在この啓徳空港は使用されていないようです。

香港の空港の中は高級ブランドなどを扱ったお店がたくさんあり、

 

飲食するところも数えきれないくらいありました。


ただ香港では持ち物検査がありエックス線を通されたので、

 

カメラのフィルムが感光しないか心配でした。

 

今は、スマホだから大丈夫だよ。


香港では帰りにクリスチャンディオールの万年筆を買い、

 

大学の授業でかなり長いこと使いました。

 

医学部の学生はPCばかり使ってるけど、PCだと記憶が定着しないから逆効果じゃないの。

 

そういうオレもMacBook 使ってるけど。てへぺろ

 


万年筆のインクの色がよくて気に入って使っていましたがやがて壊れてしまいました。


スペインでドン・キホーテの金属の模型を買ってきましたが、

 

母が気に入っていつまでも飾っていました。

香港の次はバンコクへ飛びました。


この時の隣の人は無口な外国人だったのでようやくぐっすり眠ることができました。

ただバンコクは戒厳令の真っただ中だったので飛行機から外へ出ることはできず、

 

機内に2時間閉じ込められました。

タイという国はデモとクーデターと戒厳令を頻繁に繰り返している国だ、

 

ということがその後分かりました。

HISでバンコクの旅行を申し込んだときにやはりデモがあり、

 

私はデモなんぞ気にしないで旅行に行きましたが、

 

HISの私以外のお客さんはすべてキャンセルしたそうです。

 

政府軍が黄色のシャツでしたが、私も黄色のシャツを着ていました。

 

反政府軍に襲われなくて良かったけど。爆  笑

 

少し危機意識が少なかったかな。

 

反政府軍は赤いシャツです、念のため。

飛行機がバンコクを離陸するときに飛行機の窓からバンコクの夜景を見ることができましたが、

 

それは信じられないくらいに美しく香港の100万ドルの夜景以上でした。

 

私が今までに見た夜景の中で最も美しいものでした。

飛行機の次の目的地はシンガポールでしたが、

 

この時隣の席に座ったのがオランダ人のキムさんでしたが、

 

とてもよくしゃべるおじさんで、この数年後にオランダに行きキムさんの家に寄りました。

 

人工股関節を入れた奥様と仲良く暮らしておりました。


キムさんも生涯忘れることのできない思い出深い人です。

シンガポールで飛行機の乗り換えがありました。


旅行カバンが正しく移動されたかなと心配しましたが問題はありませんでした。


シンガポールの空港ではあまりお店はなく、バーもありませんでした。

 

この当時はまだまだシンガポールは開発途上国で非常に殺風景な所であり、

 

現在のシンガポールからは想像が尽きません。

飛行機はバーレーンを目指して飛び立ちました。

 

ここから機内の日本人は私たち二人だけとなりました。


隣に座ったのは口数の少ないイタリア人でしたが、

 

とても可愛い赤ん坊を連れていました。


イタリア人にローマのことを聞きましたら、

 

ローマはスリが多くて危険なところだと忠告してくれました。


イタリア人が言うのだから間違いはないのだろうと思いましたが、

 

キムさんもローマは危険なところだと言っていたのでローマへ行くのが少し不安になってきました。

しかし、私が行った中で一番危険だったところは恐らくマニラだったと思います。


毎日のように殺人が起こっていましたし、

 

武器や拳銃は所持が自由で子供でも買えるような拳銃も売っていました。


ガイドも危険地帯には近寄ろうとはせず、

 

「ここに入ったら生きて帰ってこれないよ」と言っていました。

ロサンゼルスのダウンタウンも非常に危険なところでしたが、

 

これはヘロイン中毒者が多いためでした。


ヘロイン中毒者はヘロインを手に入れるためならば殺人など何とも思わないそうです。


ヘロイン中毒者に金を要求されたらすぐに金を渡さないと殺されるそうです。


40年前のヘロイン1回分の相場が50ドルだったそうですが、

 

今ははるかに高くなっているでしょう。


30年位前に横浜駅の周りでイラン人が女子高生に覚せい剤の欠片を売っているのを見ましたが、

 

あれが一つ2000円だったようです。

隣の席のイタリア人とはしばらく話をしてアドレスを交換しましたが、

 

日本に帰ってからそのイタリア人から手紙が来ました。

 

今ならLineの交換ですよね。

シンガポールまでは日本人をかなり見かけたのですが、

 

シンガポールを出発すると日本人は殆どいなくなりました。


いよいよ遠くへ来てしまったなあと感じました。

シンガポールからバーレーンの間はかなり距離があったのですが、

 

機内が暗くなり寝る以外にすることがなくなりました。

バーレーンの空港に着いたときは夜中だったのでほとんど人はいなくて、

 

この空港はお店もバーもありませんでした。


トイレの形が印象的で、和式のトイレをさらに簡単にしたような形をしていました。

 

えんじ色のトイレットペーパーが印象的でした。


飛行機はいよいよローマに向けて飛び立ちました。

初めてのヨーロッパにワクワクしていましたが、

 

こんな風光明媚なヨーロッパでさえ何度も行っていると飽きてしまうのですから困ったものです。


バーレーンからローマまではそれほど遠くはないのでやがて飛行機からヨーロッパの大地が見えてきました。

私という同じ人間の中でヨーロッパに対する感覚がこれほどまでに変化してしまうというのは、

 

ヨーロッパが飽きてしまったということもあるでしょうが、

 

旅というものも年を取るということではないかと思います。


これから先もしまた旅行をするとしたらとても難しい課題だろうと感じます。

ローマではダビンチ空港に降り、

 

空港を出たすぐのところにダビンチの像が左手に飛行機の原型を持って睥睨していました。

いよいよローマに来たなと感動している間もなく、

 

お金を両替しているときに背後にでかくて物騒な男たちが何人か立っていました。


これにはかなり恐怖感を感じました。


彼らがなぜ背後に立っていたのかが分かりませんでした。


マニラであれば両替した金目当てで、子供たちがしきりに私のポケットの中を探っていました。

実際のところよく分からないのですが、

 

どうも旅行のトランクが目当てだったみたいでそれを自分たちのタクシーに積み込もうとしていたようです。


ローマでタクシーに乗るつもりはなかったのでトランクを持ってテルミニ行きのバスに乗り込みました。


テルミニまで行けば安いホテルが見つかるだろうと思ったからです。

 

バスの中から見たローマの町の風景には度肝を抜かれました。


これが生まれて初めてのヨーロッパの景色でした。


この時はバスの景色だけでもこれだけ感動したのでした。


ピラミッドの形をした建物が印象的でしたが今でも何という建造物かは分かりません。

 

有名な建物だったようです。

バスはテルミニに着きローマの旅が始まりました。

8月だというのにローマはかなり涼しいなという印象を持ちました。


ヨーロッパの国々はスペインを除いて夏でもあまり暑くありませんでした。


テルミニの駅前に綺麗な、でもあまり高くはなさそうなホテルを見つけてチェックインしました。


前金として米ドルを出したのですがホテルの職員が注意深くお札を調べていました。

何をしているのか聞いてみると、偽札かどうかをチェックしていると言っていました。


ローマというところは偽札が出回るところなのだなと驚きました。

部屋はさほど広くなくこじんまりしていましたが、

 

イタリア人の可愛い女の子が案内してくれました。


部屋を片付けてベッドメイクしてくれたのにチップを渡すのを忘れてしまいました。

このホテルに泊まっている間すべての場面でチップを渡すのを忘れていました。


チップを渡す習慣がないからなのですが、最近の海外旅行では私はチップを過剰に渡しすぎたことを反省しています。

ローマの町を歩くことは実に優雅で快適でした。

初めて見るヨーロッパの景色はどれを見ても感動的でした。

まずはスペイン階段の方向に向かって歩いていきましたが途中で壮麗な大きな教会を見つけました。


教会の中に入ってみるとその大きさと美しさに驚愕しました。


特にステンドグラスは光を受けて美しく輝いていました。


教会はどこも美しくて壮麗でしたが、

 

やはり一番美しかったのはサグラダファミリアだと思います。

キリスト教への信仰から教会は作られたのですが、

 

これだけ無数の教会が作られているということはキリスト教がいかに強い力を持っているかという証拠です。


宗教の力は実に絶大で、命と引き換えてもよいと思っている信者が多いということが、

 

宗教を持たない私にはどうしても理解ができません。

少し歩いていくと有名なスペイン階段が見えてきました。


近くにゲーテなどの文豪が通ったカフェグレコがあったのですが、

 

想像していた以上にすごく小さな店で、しかも中はとても混雑していて、

 

そこでコーヒーを飲もうという気にはなれませんでした。

スペイン階段はオードリーヘップバーンがジェラートを食べていたシーンが有名ですが、

 

何故か近くにジェラート屋さんは一軒もありませんでした。

トレビの泉のすぐ横には美味しいジェラート屋さんがあって、

 

私はここで買ったジェラートを食べて本当に幸せな気分になりました。


スペイン階段はただ階段があるだけのところでしたが観光客で混雑していました。

 

その下に泉があって水を飲んでいる子供たちがいました。

 

ヨーロッパでは生水は飲めないと聞いていましたが現地の人たちは大丈夫なのかもしれません。

ヨーロッパを旅行してまずしなければいけないことは大量のペットボトルの水を買うことです。


だいたい1リットルのペットボトルを3本買ってきました。

 


ホテルの近くのスーパーマーケットで買ったのですがこれが結構重労働でした。


ホテルの部屋に小さなペットボトルを置いてあったところもいくつかありましたが全然足りませんでした。

スペイン階段から少し歩いたところにトレビの泉があります。


憧れのトレビの泉でしたが観光客であふれていました。


トレビの泉には二回行きましたが、

 

二回目は3年間のリニューアル工事が終わった直後だったので非常に綺麗なトレビの泉を見ることができました。


この時もコインを投げ入れましたが、

 

果たしてトレビの泉に3回目も行くことができるでしょうか。


トレビの泉の周りに観光用の馬が何頭か居ましたが料金が高そうなので乗りませんでした。


料金は交渉次第といわれましたが、面倒くさい交渉なんかする気になれませんでした。


これはベニスのゴンドラも一緒でやはり交渉が面倒でゴンドラには乗りませんでした。


ベニスのゴンドラは結構値段が高かったようです。

トレビの泉を充分に堪能してコロセウムの方に向かって歩いていきました。

何しろローマの町は見るものすべてが遺跡ですから町を見ているだけで楽しくなりました。

ローマで教会が多いことに驚きましたが、

 

ヨーロッパでは教会、礼拝堂、大聖堂が実に多いということがその後のヨーロッパ旅行でつくづく実感しました。


あれだけ多くの教会や大聖堂を作るというのは途方もない年月と労力を必要としたでしょうが、

 

それが宗教の持つ力なのでしょうか。

コロセウムに行く途中でガイドブックに載っていた骸骨寺へ寄ってみようかと思いました。


教会の信者2000人以上の骨で作ったお寺だというのでどうしても見てみたくなりました。


それらしき教会を見つけて中へ入ってみたのですが、

 

骸骨どころか骨の一本も見つけることができませんでした。


この時は諦めて帰りましたが五年前にローマへ行ったときに再び骸骨寺へ行きました。


やはり一階と二階には絵が飾ってあるだけで他に何もありませんでしたが、

 

この時はしつこく探索して遂に骸骨の飾ってある地下へ通ずる階段を見つけました。

 

そこで無数の骸骨を見ることができました。

 

ただ、中が異常に暑かったです。

 

乾燥を防いでいたのだと思います。

コロセウムは想像以上に巨大な円形闘技場でしたが、

 

すぐそばに凱旋門がありました。


コロセウムは2000年前、この凱旋門は500年前に作られたそうです。


この時は見落としていたのですが実は2000年前に作られた凱旋門がもう一つあったのです。


コロセウムの横の凱旋門はもしかしてジュリアスシーザーが作ったのかなとロマンを膨らませましたが、

 

どうも実際はそうではなかったらしいです。


パリの凱旋門に負けず劣らず立派な凱旋門でした。

 

コロセウムの中に入りたかったのですが長蛇の列でとても何時間も待って入る気にはなれませんでした。


しかしながら五年前はガイドが前もって予約してあったのでコロセウムの中に入ることができました。

コロセウムからホテルに帰る途中で小さな礼拝堂を見つけました。


うっかり通り過ぎてしまいそうなほど小さな礼拝堂でした。


中はそれほど大きくはなく数多くの模型が飾ってありバロック音楽が流れていました。


黒い衣装をまとった女性の修道士が数人いましたがそれがまた礼拝堂の中の雰囲気を存分に盛り上げていました。


私はこれを見て心の底から感動しました。


「ローマを歩くと何に出会うかわからないがそれがまた面白いのだ」

 

というのはゲーテの言葉ですが本当にそう思いました。


模型は人生の一生を表したものでした。


産まれて育てられ、働いて家族を持ち、年老いて病気になり、

 

最後は天に帰るという情景を実に分かりやすく表していました。

 

字を読むことができない信者にも理解できるためだったようです。


礼拝堂の室内は暗かったのですが模型のところだけは明るく照らされていました。

礼拝堂からホテルへ帰る途中で大事なことに気がつきました。


私は朝、ベッドにチップを置いていなかったことを思い出したのです。


帰ってから現金を渡すのもはしたなく感じたので、

 

近くのお店で土産物を買ってチップ代わりに渡そうと決めました。


ホテルへ帰ってから私の部屋担当のメイドさんを探しました。


小柄で可愛いメイドさんで顔も覚えていたのですぐに見つかると思っていたのですが、

 

結構多くのメイドさんがいて探すのに相当苦労しました。


何とかそのメイドさんを見つけたのでチップを置き忘れたことを謝ってお店で買ったお土産を渡しました。


彼女はすごく喜んでくれて、イタリア人の女の子もいいなと思いました。


こうしてローマの休日の初日は終了しました。


夕食は何を食べたか覚えていないのですが、

 

貧乏旅行でしたのでたぶん近くのレストランで安いスパゲッティでも食べたのだと思います。

翌日はテルミニから列車に乗ってオステアアンティーカへ行きました。


ローマの郊外を見てみたいと思ったのですが遺跡の町で途中下車しました。


ここで初めて古いお城を見ることができました。


ヨーロパのお城を見ることは長年の夢でしたので非常に感動しました。


誰も住んでいない無人のお城でしたが、

 

外観が堂々としていて立派なお城でした。


遺跡は壁だけが残存していて本体はなく、遺跡の跡だけが残っていました。


かなり広い所だったので、かつては相当巨大な建物が建っていたのだろうなと想像しました。


数人の高校生のグループがいましたのでその中の女の子に声を掛けました。


「どこから来たの」と質問すると、「フランスから」という返事が返ってきました。

 

「旅行で?」と聞くと、「課外活動だから」という答えで私にはよく意味が分かりませんでしたが、

 

それ以上はフランス語に自信がなかったので質問しませんでした。


白人の美しい女の子でした。

 

別れ際に、good luckと挨拶してくれました。


こんな些細なことですが旅行ではこんなことがとても印象的な思い出になります。


私は男ですのでどうしても女性の印象の方が強く残ってしまいます。

 

これは仕方がないことでしょう。

遺跡の駅からまた出発してオステアアンティーカに向かいました。


ローカル線ののんびりした電車でしたが座席が向かい合っていました。


ヨーロッパの電車の乗り方は言葉の問題もあって分かりづらいのですが、

 

2018年5月にデュッセルドルフに行き何度も列車に乗り、

 

少なくともドイツでの列車の乗り方はすっかり覚えてしまいました。


ヨーロパで列車に乗るときは時間が不正確なのと、

 

プラットフォームが必ずしも予定通りではないということ、

 

時刻表が複数あることなどを注意しなければいけないなと思いました。


オステアアンティーカに行った時の電車の座席の向かいにドイツ人の女性が座っていました。


私より(この時私は23歳でした)若干年上の女性でした。


英語の達者な人でしたのでしばらくお話をしました。

 

ドイツ人の女性と話をしたのはこれが初めてでしたが、

 

穏やかで優しい顔をしたドイツ人特有の美人でした。

 

speak English?と質問すると、Yesと答えてくれました。


話をしていたのは十数分でしたが、

 

このわずかな時間がこのヨーロッパ旅行の中で最も楽しかった時間でした。


この女性の顔は今でもはっきり覚えていますが、

 

この人の顔が私にとってドイツ人の女性の理想になってしまいました。

 

笑った時の口元の仕草がとても魅力的で、

 

私の話を聞くために私の口に、耳を近づけて一生懸命に聞いてくれました。


その後も多くのドイツ人の女性と会いましたがもちろんすべての女性が美人だったわけではなく、

 

日本人と同じで、ある一定の割合でしか美人は居ません。

 


その後会ったドイツ人の女性の中で抜群の美人は、

 

フランクフルトのマリオットホテルの受付をしていた女の子でした。


彼女は電車の切符の買い方が分からなかった私を

 

わざわざ電車の駅まで連れて行ってくれて切符の買い方を教えてくれました。


この女の子のお陰でフランクフルトも忘れることのできないところになりました。

ところでオステアアンティーカに行く途中で会ったドイツ人の女性とはしばらく話をして、

 

この美しい女性の写真をぜひ取りたいと思い、

 

「あなたの写真を撮ってもいいですか」と尋ねました。

 


すると彼女は、「あなたはこんな顔が好きなのですか」と聞いてきましたので、

 

「好きなんです」と照れずに答えました。


彼女は多少呆れて笑っていましたが、写真を撮るポーズをとってくれたので

 

カメラをセットしようとしたその時に電車がオステアアンティーカに着いてしまい電車のドアが開きました。


彼女が、「hurry up! hurry up ! : 早く、急がないと」

 

と言ったので慌てて電車から飛び降りたために彼女の写真を撮ることができませんでした。

 

痛恨のミスでした。

オステアアンティーカに降りてしばらく歩きましたが特に目を引くものはありませんでした。

 

オステアアンティーカという名前から大きな遺跡を想像していたのですが

 

遺跡の跡だけでお城や公園があるわけではありませんでした。


あまりすることもありませんでしたので

 

近くのレストランで昼食を取りまたテルミニに帰りました。


テルミニに帰る途中でまた大事なことを思い出しました。


ホテルで朝ベッドにチップを置いていなかったことを思い出したのです。


初日もチップを忘れましたが二日目もチップを忘れてしまいました。


テルミニ駅の小物屋さんで可愛らしい人形を買い、

 

ホテルへ戻ってまた担当のメイドさんを探しお土産をチップの代わりに渡しました。


メイドの女の子はとても喜んでくれましたが、

 

本来朝のベッドメーキングの時に現金でチップをもらっていたほうがよかったに決まっています。


品物よりも現金がありがたいのは世界共通ですから。


それでも喜んで人形を受け取ってくれたイタリア人の女の子は本当に優しいと思いました。


小柄で可愛い女の子でしたが、

 

言葉が通じないのであまりお詫びをすることもできず、

 

つくづく良心の呵責を感じました。

夜はオペラのアイーダを見るためにカラカラ浴場に行くことになりました。

 

アイーダは夜の9時に開演し、夜中の1時に終演する予定でした。


こんなに遅くにオペラをやることもないだろうと思いましたが、

 

夏のローマは夜の8時過ぎまで明るく、

 

照明効果を考えると夜の9時の開演は止むを得なかったようでした。


カラカラ浴場は想像をはるかに超えて巨大な場所で、

 

舞台も屋外でなければ作りえないだろうというほど壮大なものでした。


観客席も広く、ほとんどの客がイタリア人だとは思いましたがこのスケールでしかも有名なオペラでしたから、

 

外国人もかなり多かったと思います。


観客席を見ると金髪の人が圧倒的に多く、

 

確かにヨーロパに来たのだなと感激しました。


アイーダは全四幕で四時間の長いオペラでしたが感動に胸が震えてあっという間に時間が過ぎていきました。


舞台の最上段から女性が踊りながら降りてくる光景はまさに天使の降臨のようでした。


このシーンがこのオペラの中で一番感動的でいまだに胸に焼き付いています。


このシーンが見たくて何度かアイーダのビデオを見ましたが、

 

ついにこのシーンを見ることはできませんでした。


カラカラ浴場という屋外の巨大な舞台だったからこそ可能な演出だったのでしょう。

それにしてもこのオペラは天気が良くなくては絶対にできなかったはずでしたので、

 

8月のローマは雨が降らないのだなとつくづく思いました。


夜の星空も実に綺麗で、このオペラは一生の思い出になりました。


このオペラのクライマックスは何と言っても凱旋行進曲の場面でした。


トランペットの音を聞いていると本当に胸が熱くなりました。


アイーダのCDを買って何度も聞きましたし、

 

高いお金を出してNHKホールまでオペラを見に行きました。

 


しかしながらこのローマのカラカラ浴場でのアイーダの実演と比較してしまうと

 

NHKホールのオペラアイーダは足元にも及びませんでした。


アイーダは毎年夏にローマで行っていますので、

 

アイーダを見るためだけにローマに行ってもいいかなとも思うのですが、

 

あのアリタリア航空に乗らなくてはいけないということですからさすがに逡巡してしまいます。


私は生まれて初めてこの時にネクタイをしました。


格調高いオペラだからネクタイをしたというわけではなく、

 

旅行中に例えば高級レストランや高級ホテルでネクタイの着用を要求された時のために持って行ったネクタイでしたが、

 

オペラの時に何の理由もなくネクタイをしてみたくなって着用しました。

勿論オペラを見に来ていたお客さんたちは誰しもカジュアルな服装でネクタイなどしている人は居ませんでした。


大学の入学式でもネクタイはせず、母が買ってくれたブルーのジャケットを着ていました。


あのケチな母がジャケットを買ってくれたことは非常に珍しいことでしたが、

 

大学の入学式に和服で一緒に来たということが意外極まりないことでした。


医学部に入学したことは私の一生を左右する大きな出来事でしたが、母にとっても大きな喜びだったようでした。

アイーダが終わったのが夜中の1時でした。

 


もうバスがない時間でしたが多くの臨時バスが出て、どのバスも超満員でした。


テルミニ駅の前にホテルを取ってあったので、

 

テルミニと書いてあるバスを探せばよかったので帰りはとても分かりやすくて楽でした。


オステアアンティーカに行く途中で可愛いフランス人の女の子に会って、

 

電車の向かいの席で美しいドイツ人の女性と話をすることができ、

 

胸の震えるようなオペラアイーダを見て、本当に楽しかったローマの二日目でした。

翌日は飛行機でスペインのマドリードへ行く予定をしていました。

イタリアからスペインは国際線なのですが空港は小さくて、飛行機は約100人乗りの頼りないものでした。

空港にはレストランも売店もなくてとても殺風景でしたが、

 

何より驚いたのが搭乗券に座席が書いてなかったことでした。

 


二等電車じゃあるまいし座席が自由の飛行機というのは想像がつきませんでした。


柵の内側に乗客が全員待っていて、

 

係員の合図と同時に飛行機に向かって走って行き、我先にと座席を確保するのでした。


老若男女問わず死に物狂いで走る姿はとてもこの世の光景とは思えませんでした。


私も席がなくなったらどうしようかと心配して懸命に走りましたが、

 

実際には飛行機の座席は半分が空席でしたからそんなに焦る必要はなかったのでした。


私は一番後の誰もいない席に一人で席を独占しました。


タバコを吸うために乗務員の男性にマッチを頼みましたが、

 

マッチはないというのでライターで私のたばこに火をつけてくれました。


すべてが禁煙の現在では考えられないことでした。


飛行機の窓から見えた自然の絶景は筆舌に尽くしがたいもので、

 

このまま飛行機が墜落して死んでもいいとさえ思うくらい感動しました。


山岳地帯が多くてドイツの上空で見たような森林はあまりありませんでした。


飛行機は小さくてよく揺れましたが、

 

乗務員は男性のスチュワードが一人だけで飲み物とか食事のサービスは全くありませんでした。

やがて飛行機はマドリードの国際空港に到着しました。

どこの国へ行った場合もそうなのですが飛行機の出発は食べたり飲んだり、

 

ラウンジで休憩したりとかなり印象に残るのですが、

 

飛行機の着陸の時は少しでも早く空港から外へ出たいので脱兎のごとく飛び出してしまいます。


マドリードの場合も着陸した時の記憶はほとんどなく、ようやく憧れのスペインに着いたなといった程度のものでした。

バスでプエルタデルソールまで行き、安いホテルを探しました。

貧乏旅行でしたので値段の高いホテルには一度も泊まりませんでしたが、

 

スペインはもともと物価が非常に安かったのでホテル代も低く抑えることができました。

マドリードからプエルタデルソールまでは電車で行くほうが圧倒的に早かったのですが、

 

ローマでバスばかり使っていたせいか電車に乗るという発想がありませんでした。


タクシーは値段が高いという先入観があったためほとんど使うことはありませんでした。


ただ、ロンドンではタクシーが黒くてカブトムシみたいな形でやたらと大きく、

 

非常に特徴的で珍しかったので一回だけ乗りました。


マドリードも調べれば見るべきところはたくさんあったのですが、

 

ろくに調べないで市内観光をしたため結局スペイン広場でドン・キホーテの像を見て、

 

あとは市内をぶらぶらと散策しました。

レストランで食事をしたのですが食事代はとても安く、フルコースで600円くらいでした。


これがスイスですと5000円くらいしましたから国によってかなり物価が違うのだなと思いました。


この旅行では安いホテルを選びましたが、それでも一泊がだいたい5000円くらいでした。


安いとはいえ中級くらいのホテルでした。

 

やはりバスタブなどの設備が整っているほうがいいと思いました。


この数年で泊まったホテルは

 

リッツカールトン、ペニンシュラホテル、コンラッドなどですが一泊40000円くらいしました。

しかし海外旅行はすっかり飽きてしまったのでもう当分海外旅行をすることはないと思います。


残りの人生が短いとは思っていませんが、

 

無意味なお金は使わないで楽しくのんびりと過ごしたいと望んでいます。

翌日はまたバスに乗ってトレドに行きましたが、激しい暑さに閉口しました。


摂氏41℃というのは私の人生では初めての経験でした。


ただ空気は乾燥していて日陰に入ると何とかしのげましたので極力日なたは避けました。


のどが渇いて水が飲みたかったのですが、

 

スペインでは水は貴重品でしたのでトレドではどこにも売っていませんでした。


その代わりコカ・コーラを売っていたのですが一本200円と高く、

 

買うのを躊躇しましたが背に腹は代えられず仕方なくコカ・コーラを買いました。


しかしコカ・コーラは甘すぎてのどの渇きを癒やすのにはほとんど役に立ちませんでした。


お土産屋さんの中はクーラーが効いていて涼しかったのですが、

 

お土産を買う気がないと分かるとすぐに店から追い出されました。


トレドという所はおとぎ話に出てくるような街で、お城があり、教会があり、

 

美しい川が流れていて本当にメルヘンの世界にいるようでした。


子供の頃テレビのデズニーランドで見た夢の世界を目の当たりにしたようで本当に感動しました。


トレドは街の裏側が険しい崖になっていて要塞でもあったのです。


トレドでホテルを取りましたがかなり立派なホテルでお金が心配でしたが、

 

一泊3000円位だったので安くて助かりました。


スペインを旅行していた間物価が安かったことには本当に助かりました。


しかしこのホテルは相当豪華なホテルで入り口に鎧兜が飾ってあり、

 

内装も洗練されていて部屋も広くて贅沢な作りでした。


トレドにバスで着いたときにアメリカ人の陽気な夫婦に会いました。


この当時ヨーロッパのどこへ行ってもアメリカ人の観光客を数多く見つけることができました。


このアメリカ人の夫婦は日本に相当関心があったらしく、

 

日本のことをたくさん聞かれました。


東京は大都会で高層ビルが林立していると言うと非常に驚いていました。


日本と言えば、侍、忍者、着物、芸者などと思っていたようですが、

 

私ですらそんなものはほとんど見たことはないというと相当がっかりしていました。

トレドも夜になると暑さは去り、どちらかと言えば少し肌寒くなってきました。

街をぶらぶらして古めかしい一軒のバーに入りました。


中には子供たちが何人かいただけでお店のマスターらしき人は居ませんでした。


ミュージックボックスがありましたのでコインを入れて音楽を聴いていると、

 

子供たちがミュージックボックスにかじりついてきました。


子供たちも音楽を聴きたかったのにコインがなかったのです。


私はバーで飲み物を頼みたかったのですが、

 

マスターがいませんでしたのでカクテル一杯注文することもできませんでした。


トレドは一流の観光地で見るべきところはたくさんあったのですが、

 

ガイドブックもろくに読まなかったのでトレドではたいした観光もせず、

 

翌日にはマドリードに戻ってしまいました。


後に二回目にトレドに行ったときには飽きるほどトレドを観光しました。

マドリードに戻ってどこへ行くというあてもなかったので有名なプラド美術館に行くことにしました。


この美術館でアメリカ人のマットに会い、その後しばらくマットと旅行を続けました。


プラド美術館は巨大な建物でしたが展示してあった絵画も超一流でした。


マットはガイドブックを見ながら絵画を一つ一つ鑑賞して、

 

私に絵の説明をしてくれました。


ベラスケスの代表的な絵画があったのですが、

 

マットの説明だと女性の顔が不細工なのがこの絵の特徴だと教えてくれました。


ドラクロワの絵画も数多く見ましたがどれも暗くて陰気な絵でした。


ドラクロワの後期の絵画は人物画が浮いているのですが、マットの説明によると、

 

ドラクロワは梅毒で耳が聞こえなかったため人物が宙に浮いて見えたのだと説明していました。


ゴヤの絵画は見ごたえのある優れた作品が多かったのですが何と言っても「裸のマハ」が印象的でした。


裸のマハは顔が不細工ですが、その美しい肉体美は現実にはあり得ないくらい官能的だと思いました。


こんな綺麗な体の女は未だかつて見たことがありません。


絵画というのは不思議なもので、これほど個人ごとに好き嫌いがはっきりしたものはないと思います。


絵画は極めて感覚的なもので描き手の自己実現を投影していますので、

 

見る者の受け取り方は本当に多種多様だと思います。


プラド美術館のすぐそばにソフィア美術館があって、

 

ここも超一流の絵がたくさん展示してあったのですが、

 

そもそも近くにソフィア美術館があったことさえ知りませんでした。


二回目にマドリードに行ったときにこのソフィア美術館に行き、

 

ゲルニカなどピカソの作品などをたくさん見てきました。

マットの貧乏旅行は常軌を逸したもので、

 

私はだいたい一泊5000円位のホテルに泊まっていましたが、

 

マットの泊まっていたホテルは一泊500円位のホテルでした。


その翌年にアメリカに行ってマットの家に寄りましたが、

 

マットの家庭はいわゆるアメリカの中産階級で決して貧しくはありませんでした。

私はマドリードから次の目的地のグラナダを予定していましたので、

 

マットとはマドリードでお別れということになりました。


ところがマットは自分の目的地だったところの切符をキャンセルして一緒にグラナダに行くと言いました。


アメリカ人というのは実に気まぐれだなと思いました。


マドリードの駅から列車に乗ることにしていたのですが出発までにわずか10分しかありませんでした。


駅で切符を買うために言葉の通じない駅員とやり取りをして、かなり時間を無駄にしてしまったのが原因でした。

グラナダまでは10時間以上かかりますのでどうしても飲み水が必要だと思い水を買いに走り回りました。


運がよかったことに1リットルのペットボトルを何本か買うことができました。


水は高いという先入観がありましたが1本がわずか200円でした。


その後、海外旅行をしたときは着いたら

 

真っ先にスーパーマーケットでペットボトルの水を数本買うのが習慣になりました。


マドリードの駅で走り回って買ったペットボトルの水を1本マットに渡したら泣きそうな顔をして喜んでいました。


何と言ってもヨーロパでは水は貴重品でしたから。


列車は鈍行で二等でしたので、若者たちで大混雑していて座席を取るのは全く不可能でした。


それにしてもゆっくり走る列車で、これではグラナダまで10時間以上かかっても当然だなと思いました。


窓から飲み物の瓶を電柱に向かって投げる奴がたくさんいましたが、

 

車内に窓からの投げ捨て禁止の絵が張り出してあったのに全くモラルのない奴らでした。


電車の出発は夜でしたので外は真っ暗で、空の星が実に綺麗でした。


線路のわきで火を燃やしていましたが、黄金色に輝いてとても美しく、非常に神秘的で感動しました。


この列車でスウェーデン人のトーステンに初めて会いました。


大学で法律を勉強していると言っていましたが非常に流暢な英語をしゃべりました。

スウェーデンがどんな所か聞くと、とにかく女の子が美人ばかりで、

 

フリー****の国なのでどんな女の子とでも****できると言っていました。

私は本当に羨ましく思い必ずスウェーデンには行こうと思いました。


その後スウェーデンに行くことができたのですがトーステンの言っていたことは全て出鱈目だと分かりました。


美人なんて殆どいませんでした。


トーステンという奴は全くいい加減な男でした。

列車の中では寝る場所を確保するのが一苦労でした。


座席は超満席で床に寝るしか方法はありませんでした。


そうは言っても電車の床は非常に硬いので、お尻と頭に雑誌を置いて眠りましたが、

 

私の頭の上の方に寝ていた別の男が寝ぼけて私の頭を蹴飛ばしました。


とにかく寝るしかなかったので我慢して寝ましたが、気がつくと頭とお尻の雑誌がなくなっていました。

廊下には若い女の子たちも寝ていて非常に驚きました。


よく恥ずかしくないなと思いましたが、欧米人の女の子はあまり羞恥心がないのかもしれません。


やがて朝になってまわりが明るくなってきました。

窓の外に金色に輝く向日葵が一面に咲いていて、まるで天国みたいでこの世のものとは思われませんでした。


マドリードの駅を出発してから長い時間経って、鈍行列車もようやくグラナダに着きました。

グラナダに着いたのが早朝でしたからまだホテルにチェックインするには早く、

 

おなかも空いていたので駅でコーヒーとパンを買って食べました。


この当時は現在のようにスターバックスのような便利な店はありませんでしたので、

 

駅のお店であまり美味しくない朝食をとるしかありませんでした。

グラナダではまずアルハンブラ宮殿へ行くことにしました。


グラナダの町はヨーロパの中世を思わせる町並みで、壁が白かったのが印象的でした。


アルハンブラ宮殿まではかなりの距離の坂を上っていくのですが、

 

道路のわきを大量の水が流れていたのが不思議な光景でした。


スペインは水がないという固定観念を持っていましたので、

 

豊富な水を無駄に流していることが理解できませんでした。

アルハンブラ宮殿の中でも水はふんだんに使われていました。


中央の中庭の花園が非常に美しく、多数の噴水で花園が潤っていました。


この場所に観光客が最も多く、日本人も居て下手くそな英語で話しかけてきたのですが、

 

何を言っていたのかさっぱり分かりませんでした。


アルハンブラ宮殿は想像以上に巨大で美しい宮殿でした。


有名な壁の模様は実に繊細で、人の手で作ったというのが信じられませんでした。


この模様は世界的に有名で数多くの芸術家のモチーフになっています。

アルハンブラ宮殿のライオンの間を見てからグラナダに中央広場に向かいました。


ここでテーブルを囲みながらマットとトーステンと一緒に酒を飲んでいました。


トーステンはやはりスウェーデンのフリー****の話をすると、

 

クリスチャンのマットはそんなのは嘘だと否定しました。


日本ではどうだと聞かれましたので、一部の女子高校生は別として****はないと答えました。


トーステンはそれなら広場の女の子を5分以内にナンパしてみせると言いました。


マットはそれならやってみろと言いましたが、私もこれは無理だろうなと思いました。


ところがトーステンが広場を歩いていた若い女の子に声をかけるとわずか1分で女の子は落ちて、

 

私たちのテーブルで一緒に酒を飲むことになりました。


トーステンのテクニックには改めて感動しました。


女の子の名前はスーザンマリアで21歳のイギリス人でした。


トーステンがナンパしただけあってかなり可愛い子でした。


スーザンからはイギリスの話をいろいろと聞くことができました。


いろいろと話をした後で夕食を食べにレストランに行こうということになりました。

我々は全員貧乏旅行でしたので高級なレストランで食事をすることはできませんでした。


だからといって安い食堂ではしらけるのである程度は見栄えのいいレストランで食事をすることにしました。


外国人の若者同士、女の子も交えて夕食を取るのは外国旅行だからこその貴重な経験でした。


スペインの衛生状態を信用していませんでしたので生ものを注文することは避けました。


結局グリルしたニシンを食べ、お酒も注文してすっかり宴会気分でした。


スーザンが一番よくしゃべっていてイギリスの話をいろいろとしてくれました。


トーステンは私と話していた時には****の話題ばかりだったのですが、

 

この時は女の子もいたせいかエッチな話は全くしませんでした。


マットが敬虔なクリスチャンであることを知っていたので宗教の話題はなるべく避けました。


楽しかった時間が過ぎて帰る時間になりましたが、これがトーステンとスーザンとの最後の別れでした。


この後マットと闘牛を見に行くことにしました。


時間はすでに7時を回っていましたが外はまだまだ明るくて、ヨーロッパの夜は長いなと思いました。


闘牛場の席がダブルブッキングされていて少し揉めましたが、さすがにいい加減なスペインらしさでした。


牛は全部で8頭出てきて、最初は物珍しく興奮してみていましたが、

 

段々と殺される牛が気の毒で残酷な感じがしました。


マットはその思いをもっと強く感じたようでした。


あたりも暗くなってきたころ、たくさんの鳥が飛んでいるなと思ったらコウモリでした。


実物のコウモリが飛んでいるのを見たのはこの時が初めてでした。

翌朝突然激しい下痢に襲われました。どうもその前の日に食べたニシンで食中毒を起こしたようでした。


しかしこの日はマットが帰る日だったので駅まで見送る約束をしていました。


グラナダの駅でマットに会うとおなかの調子が悪いと盛んに言っていましたので

 

マットもニシンに当たったようでした。


マットは顔色が悪くて心配でしたが、マットが乗った電車を何度も思い出たっぷりに見送りました。

 

goodby, see you again,so longと三枚の紙に書いてマットに見せて見送りました。

 

マットは苦しさをこらえながら、私に向かって微笑んでいました。

 


この食中毒はなかなか厄介で結局3日間ホテルから移動することができませんでした。

当初の予定ではグラナダの後バルセロナへ寄ってサグラダファミリアを見るつもりでした。


グラナダでの食あたりで3日間無駄にしてしまったためバルセロナへ行くのは諦めて、

 

グラナダからパリへ直行しました。

グラナダからパリまでは遠く、鈍行列車で約20時間かかりました。


幸いにして列車が混んでいなかったので床で寝るようなことはありませんでした。


暇を持て余していましたので多くの外国人と話をしましたが、

 

オーストラリア人の二人の若い看護師の女の子たちが印象的でした。


オーストラリアを出発して半年間も旅行を続けているとのことで、中東が特に印象的だったそうです。


ただそろそろ旅行には飽きてきたと言っていました。


何ヶ月も旅行をしていた日本人に何人か会いましたが、

 

彼らはみんな旅行に疲れていてもはや名所や旧跡には関心がないと言っていました。


私も海外旅行にはほとんど関心がなくなってしまいました。

旅行も人生と同じで年を取ると言いますが、私の旅行もそうなっているのかもしれません。

オーストラリア人の女の子達と話をしてかなり時間がつぶれたのですが、

 

とにかく時間のかかる列車だったので寝てばかりいました。

 

二等車だったのでおなかが空いても食堂車はなく、日本と違って駅で弁当を売りに来る人も居ませんでした。


ただ駅に売店はあったので列車が止まっている間に飲み物は買いに行きました。


買っている間に列車が出てしまったらどうしようという心配はいりませんでした。


自転車並みの遅い列車だったので走ればすぐに追いつきました。


何もすることもなくて暇な列車でしたがやがて目的地のパリに着きました。


憧れのパリでしたがガイドブックなどで下調べを全くしていなかったので、

 

どこを観光していいのか見当が付きませんでした。


まずパリでホテルを探すことから始めました。


パリはホテルがものすごく多かったので、手ごろな安いホテルがすぐに見つかりました。


駅の傍のホテルの部屋はとても狭かったけれども建物が新しく、

 

何と言っても一泊3000円と値段が安かったのでここに決めました。


パリは物価がむしろ高いほうでしたがホテルは安かったようです。


まずシテ島へ行って有名なノートルダム大聖堂を見ることにしました。


堂々とした大聖堂で中のステンドグラスも非常に綺麗でした。


どこの教会のステンドグラスも美しかったのですが、

 

やはり一番印象的だったのはサグラダファミリアのステンドグラスです。


シテ島からエッフェル塔に向かって歩いていきました。


父がエッフェル塔は東京タワーよりは低いけれど、

 

大きくて下に道路があって車が走っているのだよ、

 

と聞かされていましたので期待に胸を膨らませてエッフェル塔へ行きました。


エッフェル塔に着いてみるとその大きさに改めて驚かされましたが、

 

京都タワーのようにまわりの景観を損ねることはなく、周囲の建物や自然と調和していたのに感心しました。


エッフェル塔に登りましたがエレベーターが遅いのが意外でした。


エッフェル塔のエレベーターはその当時でも珍しい水圧式だったからのようでした。

 

エッフェル塔の上からパリ街を見渡すとヨーロッパ独特の風情を感じましたが、

 

他のヨーロッパの街が赤い屋根が多かったのに対して紺色の屋根が多かったのが印象的でした。


エッフェル塔から凱旋門は近くだったので、ナポレオンが凱旋したという凱旋門に行くことにしました。

凱旋門と言うとまずローマの凱旋門を思い出したのですが、

 

それよりはかなり大きく新しいものでした。

 

ここを中心に8本の道路が放射状に走っているのですがそれが何のためかは分かりません。


しばらくしてホテルに戻ることにしました。


先ずはしばらくぶりのお風呂に入りたかったのですが、

 

お風呂の水をこぼすと莫大な費用を弁償させられると聞いていたので注意して風呂に入りました。


パリに来たのだからフランス料理を食べればよさそうなものでしたが、

 

貧乏旅行でもあったし、フランス料理は値段が高いという先入観があったので

 

ホテルの前の安いパン屋でパンを買って食べました。


夜になったのでパリの町を散歩してシャンゼリゼ通りに向かって歩いていきました。

 

途中にコンコルド広場があり、巨大なオベリスクが立っていました。


ライトアップされていて非常に美しくて圧倒されました。


パリの夜はなんて綺麗なのだろうと感動しました。


シャンゼリゼ通りもまた光り輝いていて信じられないくらい美しく、パリの町に心から魅了されました。


ガイドブックなどでパリの下調べをしてなかったので誰でも知っている観光地にしか行きませんでした。


それでもフランス革命の発端となったバスチーユ監獄を見ておきたいと思い、

 

もしかしたらマリーアントワネットが収監されていた牢獄が残っているのではないかと期待したのですが、

 

バスチーユには何一つフランス革命の痕跡は残っていませんでした。

翌日は有名なルーブル美術館に行くことにしました。


有名な絵画が無数に展示されていたのですが、

 

この当時私には絵画の知識がほとんどなかったので何が何だかさっぱり分かりませんでした。


唯一モナリザだけが分かりましたが、この時モナリザの絵はむき出しにされていました。


その後ガラスの覆いが掛けられるようになり、やがて警報器も設置されるようになりました。


しかしモナリザのどこが優れた絵画なのか私にはさっぱり分かりません。


有名な絵画ではありますがアートは受け手がどう感じるかで決まるものなので、

 

モナリザがいいと思っている人は美的感覚が私とは異なっているのでしょう。

ルーブル美術館は広すぎて全部を観ることは不可能でした。


何と言ってもたかが絵画ですから見ていてもそう面白くなかったのは事実でした。


結局2時間くらいで飽きてきたのでルーブル美術館を出てしまいました。

旅行も終わりに近づいてきて次の目的地はロンドンでしたので、フランス側の港からホーバークラフトに乗りました。

 

ここが有名なノルマンディー上陸作戦の行われたドーバーか海峡なんだなと感慨に耽っておりました。


ホーバークラフトは海の上を飛ぶように走るのでものすごく早く、

 

外の景色をゆっくりと楽しむ暇もなくイギリスに着いてしまいました。

ロンドンはほぼ一日中小雨が降っていて、確かに霧の都ロンドンと言われることが納得できました。

レストランに入ってステーキとソーセージを注文したのですが全く味つけがしてありませんでした。


ウェイトレスに文句を言いましたが、それがイギリスの食事なのだと取り合ってくれませんでした。


しかし味のしないステーキとソーセージはとても食べられませんでしたので、

 

ウェイトレスにせめて塩でいいから持ってきてくれと頼みましたら、

 

ウェイトレスは渋々塩を持ってきました。


塩のお陰で何とか食べられましたが実に後味の悪かった食事でした。


ロンドンでは頻繁に地下鉄を利用しましたが、全体的に汚れていて落書きだらけでした。


エスカレーターの長さに驚きました。


みなとみらい駅のエスカレーターぐらいの長さがありました。


ウェストミンスターへ行って、ロンドンブリッジを見学し、ピカデリーサーカスに戻ってきました。


ピカデリーサーカスの宣伝看板で一番大きかったのがソニーでしたが、

 

ソニーやパナソニックが世界的に有名だった時代は大昔に終了しています。


ロンドンブでポルノ映画館に入りました。


無修正のポルノ映画を見るのはこれが初めてでした。


これが外国のポルノ映画かと興味は持ちましたが女の裸にはたいして関心はありませんでした。

有名な大英博物館に行きたくさんの展示物を見てきました。


イギリスが大英帝国時代に世界中から集めた貴重なものが数多くありました。

私は先ずロゼッタストーンに目が行きました。


こんな大事なものが誰でも触れるところに晒してあったのです。


私は石のいろいろな場所を引っ張って欠片の一つも持って帰れないものかと思いましたが、

 

石が固すぎて不可能でした。


ほかにも数多くの彫刻や宝石がありましたが、北アフリカや中東からのものが多かったようでした。


少なくともルーブル美術館よりは飽きずに楽しめました。

このヨーロッパ旅行の為に70万円用意しましたが、最後の旅行地のロンドンでまだ20万円残っていました。


翌日には日本に帰る予定でしたので、ロンドンで何かお土産を買おうと思いました。

ピカデリーサーカスの正面にバーバリーの本店がありましたので、バーバリーで何か探すことにしました。


バーバリーの店員は非常に恭しく丁寧に商品の説明をしてくれました。


ウールのコートが5万円、カシミヤのコートが10万円でしたから日本で買う場合の約半額でした。


日本に入ればカシミヤのコートを買うなんてことは絶対思いつかなかったのですが、

 

お金を残して帰国してもしょうがないのでカシミヤのコートを買うことにしました。

 

残った10万円は日本へ帰る途中の香港の店でクリスチャンディオールの万年筆を5万円で買いました。


カシミヤのコートは非常にいい買い物だと思ったのですが日本ではたった一回しか着ることがありませんでした。


あまりにも温かすぎたのでした。


氷点下以下の地域ではちょうどよかったかもしれませんが、東京の冬ではむしろ暑いくらいでした。


30日間という長いヨーロッパ旅行でしたが感激することが多くて実に楽しい旅行でした。生涯忘れることのできない旅になりました。




            拙い長文で申し訳ありませんでした。お願い








スイスのゼラニウムです。匂いがきつく、害虫予防に置かれています。綺麗ですねウインク