私はずっと東北に暮らしていますが、毎年この時期にはあの日のことを思い出します。

とはいえ、私が住んでいる地域は日本海側のため全国放送されていたような甚大な被害はなかったのですが、それでも混乱はありました。

今回は私自身にあったあの日のことを書いてみたいと思います。


私は当時、全国に展開する某大手ショッピングセンターに勤務しており、その鮮魚コーナーのスタッフでした。

その日は少し遅い昼休みから作業場に戻り、金曜日ということもあって翌日から入るチラシ商品の仕込み作業をしていました。

昼明けの平日ということもあって、店内のお客さんはまばらで、私は先輩たちと今日は売り上げマズイすかねぇ?と雑談しながら和やかな雰囲気でそれぞれがそれぞれの作業をしていました。

そして14時47分...

突如として同僚のケータイがけたたましいアラーム音が作業場内に響きました。

そしてその直後、店内の吊り下げPOPが激しく揺れ、酒ダナからビンが落ちて割れました。

そして私たちが避難訓練のマニュアル通り、作業台の下やまな板台の下に身を屈めて避難していると、突然店内のあらゆる電気が消え、あたりは真っ暗になってしまったのです。

しかし、私たちはマニュアル通り暗くなった店内でまず残されたお客さんを正面入り口へ誘導し、他に残されたお客さんがいないか店内の1階を見て回り、それから私たちも正面入り口へと向かったのですが、私たちはここで予想外の事実に戸惑ってしまいました。

まず、私たちは年に一度か二度、必ず避難訓練をやっていましたが、このような真っ暗な中で足元もわからない状況はやったことがありませんでした。

そのため、お客さんを避難させる際にも商品棚の間を通って正面入り口へ誘導するようなことはせず、なるべく店内の中央を通る大きな通路を通るよう誘導しました。

そして、何より厄介だったのはこれから帰ろうとしていたスタッフの誘導でした。

当時私たちスタッフのロッカールームは3階のバックヤードの奥にあり、通常でしたらバックにある3つの階段のうちの真ん中に位置する1番大きい階段を使うのですが、そこは3階の階段奥に積んであった段ボールが崩れて道を塞いでおり、さらに照明が消えていたため危険すぎるということから通行禁止となったため、3階奥の少し小さい階段を使って1階に降りるという判断がされたのです。

しかしこの階段、中央に比べるとせまく、傾斜がやや急であるため足元が悪く、手すりに捕まっていないと滑り落ちそうなほどでした。

しかしそこは3階の衣料、住生活売り場のスタッフが売り場から持ってきた懐中電灯を点けて足元を照らして帰るスタッフをサポートしました。

あの時は、本当に避難訓練では想定していなかった様々な問題がおき、その度に私たちスタッフは臨機応変に対応して解決していきました。

そうしてお客さんもスタッフも含め、1人もケガ人を出すことなく避難が完了したのです。

ただ、店が停電となってしまったため、私たちはそれから店の冷凍商品を業務用冷凍庫に片付けたり冷蔵の効かなくなった売り場からその日しか保たない商品を集めて廃棄したりと、後片付けが大変で帰る頃には夜8時を過ぎてました。

そして私は車で家に帰りましたが、途中信号機が全くついておらず、帰路を急ぐ車で国道も脇道もどこも渋滞し、普段なら15分程度で家に着く道を1時間以上かかって帰りつきました。

3月とはいえ雪国の春は遠く、まだまだ寒かったもので電気はおろかストーブもヒーターも点きませんでした。

私たちはカセットコンロを持ち出してその上に鍋を置き、その日はコンロの火で暖を取りながらうどんを食べました。

翌朝になっても私たちの地域はまだ電気が復旧せず、お店は店先にある店舗駐車場を使って仕事をすることになりました。

その中で飛ぶように売れたのは乾電池とライター、カセットボンベでした。

そして食料品ではカップラーメンや缶詰など保存のきくものが真っ先に無くなっていきました。

もちろん、店舗全体としての売り上げは全くいかないものの、この日は実績や予算はないものとして、地域のために提供できるものを頑張ろうということもあって、みんな懸命に売りました。

そして店を閉める5時頃になり、ようやく私たちの地域の信号機が点きはじめ、各家庭の電気がついていったのを見て、この街が日常に戻るのを感じました。