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『小説日本書紀49推古 推古朝は百済仏教王朝』序言より
崇仏派の勝利は倭国を仏教国にする革命だった 崇仏派の蘇我馬子が、排仏派の物部守屋らに勝利したことにより、倭国を新しく仏教国にするという革命が成功したことを明らかにした。さらにいうなら、蘇我氏は韓地百済(温祚百済)の代弁人であり、それは、蘇我氏と韓地百済が一体となって、倭=沸流百済を飲み込んだ革命であった。
倭国を仏教化するという革命に勝利した蘇我馬子は、当然に倭国の大王に匹敵、あるいはそれ以上の権限を有する存在になっていたはずで、仏教を流布するという大義名分で、それを阻害するものは大王であっても弑する権限を有していたと思われる。仏教流布の大義名分によって私腹を肥したであろうことまでは否定できないが、排仏派に勝利した崇仏派の蘇我馬子は絶大な権限を有するに到ったと推測される。
蘇我馬子発願の法興寺(飛鳥寺)や聖徳太子発願の四天王寺が百済様式であることは、崇仏派の戦いが、蘇我馬子個人の戦いではなく、韓地百済(温祚百済)と、排仏派の倭=沸流百済との国家間の戦いであった。当時の仏教指導者が、百済からの渡来人であったこともそれを傍証する。
ところで、『古事記』と『日本書紀』の伝承史は、倭国から日本への生い立ちを語ろうとした自画像だといわれている。『古事記』は第34代推古朝までの王統譜を綴っているが、『日本書紀』は第41代持統朝で筆を置いている。
『日本書紀』を熟読すると、倭王の交替が幾度もあったことを示唆していることに気付く。それは、百済→筑紫→吉備→難波の瀬戸内ルートに立つ葛城系王家と、新羅(伽耶)→出雲→若狭→越→近江→山城→磯城を結ぶ山陰海岸ルートに立つ春日系王家の相克であった。この『日本書紀』シリーズでは、前者を百済系大和王朝とし、後者を新羅系山陰王朝とする視点で叙述していることを理解願いたい。
推古28年(620年)条に「太子と馬子大臣が議って、大王記および国記(くにつふみ)、臣・連・伴造・国造など、その外多くの部民・公民らの本記(もとつふみ)を記録した」とあることから、推古朝に聖徳太子と蘇我馬子によって『先代旧事本紀』が撰修されたものとされている。
しかし、『先代旧事本紀』に、和銅5年(712年)に刊行された『古事記』や養老4年(720年)の『日本書紀』、それに大同2年(807年)の『古語拾遺』の記事が引用されていることから、それ以後の刊行と見られ、そして、平安時代中期の年中行事の起源や沿革などをまとめた『本朝月令』や鎌倉時代末期の『日本書紀』の注釈書である『釈日本紀』などに、『先代旧事本紀』の記事が引用されていることから、平安初期に刊行されたものと見られている。
それゆえ、日本史学界の大勢は、『先代旧事本紀』を偽書とするが、その内容までを虚偽と否定するわけにはいかないという説も根強い。とまれ、『日本書紀』に引用される「百済記」「百済新撰」のことだが、推古朝以前に成立したとされるのが通説だ。
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