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『小説日本書紀27成務 成務は武内宿禰王朝の傀儡』序言より
自らの存在を黒子にした沸流百済は史上から消えた 成務は、どことなく影の薄い大王(天皇)のイメージだ。『日本書紀〈成務紀〉』も『古事記〈成務記〉』もともに短い記事であることから、さらにそのイメージを強くする。崇神朝が二つに分裂し、垂仁→成務と景行→仲哀の二王統に分裂したという説がある。
アマテラス(天照大神)は、ニニギ(瓊瓊杵)の降臨に際し、「倭地はお前が治めるべき地だ」といって、三種の神器を授けたことは〈神代紀〉に記されている。それは、当時の倭地は、沸流百済の王族が治めるべき土地だと主張したことを内外に闡明したことなのだ。
ところが、沸流百済は、史書に全く現れない国名なのだ。それは、自らの存在を黒子にして、倭地を統治したがためだと思われる。それは、自らの歴史を消去してしまうことであり、時代が経るにしたがって、完全に埋没してしまった。その沸流百済を掘り起こしたのが金聖昊著・林英樹訳『沸流百済と日本の国家起源』という書だ。
チュモン(朱蒙)が建国した高句麗から、沸流と温祚の兄弟は母親の召西奴(ソソノ)と一緒に南下し、漢江流域に到達し、弟の温祚はソウル付近に定着し、農業立国を目指した。兄の沸流は、仁川付近の海浜に本拠を構え、海上立国を目指した。
その後、ともに高句麗広開土王に撃破されてしまうのだが、広開土王碑に利残国と刻されているのが沸流百済で、百残国と刻されているのが温祚百済のことだ。百残国の王族は多くが高句麗に連行されたのだが、利残国は王族一人のみであったと刻されている。
その利残国の王族はどこに消えたのか、だが、それが倭地へに集団避難ということになる。その時期は応神朝の頃と見られ、その沸流百済は、自らの存在を黒子にして百済系大和王朝を突如樹立し、それまでの倭地の領知者であった新羅系山陰王朝を簒奪して、倭地を領知する実権を掌握した。そのため、弟の温祚百済が百済として認識され、沸流百済は史上から消えてしまった。
7世紀に藤原不比等らによって創作されたというアマテラス(天照大神)が、日本国の始祖のような扱いを受けているのだが、それは、百済の色に染められている。日本列島を開拓したのは、新羅系、実際は伽耶系渡来人であって、そうした歴史の中に、随所に百済の色がはめ込まれている。それは、沸流百済による歴史偽造作戦とみていいだろう。
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