<「顔の小説」という観点から
ドストエフスキーの長編小説『白痴』を読み直す>(P.21)。

『白痴』の主人公・ムイシキンは
書く文字がキレイで、文字好き、文字フェチな人物として登場する。
文字は「キャラクター」でもあり
それを通して、心、人格をも見たりするメディアである。
そのムイシキンが惹かれるのが写真、ナスターシャの顔の写真である。
<顔の専門家>(P.56)と皮肉交じりに言われるムイシキン。

そして
<究極のひとめぼれ小説としてはじまった『白痴』の物語から
次第に顔が剥がれ落ちてゆく。
(…)
私たちの顔は(…)過剰になることによっても
その姿を消していくのだ>(P.133)

<恐れられているくせに、あんなにも愛されている
あの顔というやつは
いったい何なのだろう!>(P.151)

「顔」とは
今や現代人の日常生活において、恐怖の対象でしかない。
街で他人の顔を見ないために
人はスマホを不自然なまでに懸命に使う。

感染症に怯えすぎた挙句、精神を病んで

マスクが手離せなくなり、もとい口離せなくなり

しかし、顔の下半分を隠す便利な道具だと使い続ける。
地球沸騰化さえ、顔を隠すためのよい言い訳だ。

日光が眩しくてたまらないということにして
サングラスを着け、傘をかざす格好の理由にする。
そのすべては、街で自分の顔を見られないことに収斂する。

便利な都市生活の果てにあったのは
顔に恐怖し、互いに顔をそむけ合う
顔面に恐怖する者だらけのディストピアであった。