万历朝鲜战争(1592年—1598年)又称万历朝鲜之役、万历援朝战争(朝鲜称:壬辰倭乱;日本称:文禄・庆长の役)

1592年6月、朝鮮の江沙地区に数百名の倭軍が明軍の間諜で発見された、祖承训で率いた2000人あまり朝鮮に開進して入った
7月17日夜明け前、明軍は朝鮮官僚の欺瞞のために敵情が分からない平壌に入った、马世龙、张国忠は先に入った、倭軍の10人あまりを殺した、雨のために火器は発砲できなかった、他には倭軍の戦法が分からないので、1人の将軍は日本軍の鉄砲で殺された、そのだから明軍は逃げた

祖承训の朝廷への報告は平壌に1000人だけではない、10000人がある、そのために東北、朝鮮に軍事の指揮権を朝廷への兵部と言うの役所に移された

この月、沈惟敬を平壌に派遣して倭軍と交渉し、目的は朝鮮へ増兵のかかる時間を取る

9月にも7万人の明軍を集結された
10月16日まで、李如松を総兵官とされた時は4万の精鋭部隊を集結された

12月25日、寧夏地区のモンゴル、イスラム教徒の住んでいる地区で作戦してから東北来た李如松は43000人を率いて朝鮮に入った、10日後の1月5日平壌の城壁の下に来た
1593年1月8日、平壌に7つの大門の3つの大門と北方向の山を南、西、北の方向で攻撃して、祖承训を初で南門から入った、それから、含谈门、普通门、七星门、牡丹峰続々攻略された、この夜、小西行長で率いた倭軍は南東方向へ突破して、城外の山に隠した明軍は大砲を発砲して川を渡す最中の倭軍を攻撃した、この戦いで明軍戦死790人、倭軍は1万人あまりの損失をあげた/百度はそう記入したけれど/


17日後の1月25日に中朝の数百人の前哨部隊は碧蹄馆地区に前野长康、加藤光泰で率いた数百人の前哨部隊と遭遇して交戦して、倭軍の60人の損失で後退した、明軍はこの戦況を後方に伝えた
翌日李如松で率いた4000人は開進して来た、立花宗茂で率いた3200人は隠していた、
朝頃、十时连久、天野贞成で率いた700人は明軍を誘う、明軍の查大受で率いた500人は予測以外の速さで倭軍を撃破した、残った130人の倭軍は後退してから明軍は追撃した、前に人数は多数の倭軍で攻勢を止められた、そして明軍は増兵して3000人になった、高桥统增で率いた3000人は右翼から攻撃してきた、明軍は後退して、立花宗茂で率いた800人は追撃して、そのうち部下の池边永晟は戦死
明軍は軍勢を整えて反撃する、立花宗茂は後退した
5時間の後は黑田长政で率いた5000人は立花宗茂の代わりに軍勢を立っていた、後方に数万人の倭軍は続々戦場に来た
倭軍は鹤翼の陣で張っていた
優勢な倭軍に面していたので明軍は倭軍の前方部隊に向けて攻撃して、倭軍の主力は前向き、側面にも明軍に攻撃して、でも側面の倭軍は撃退された、それからも倭軍は側面に増兵して、明軍は囲い込まれた、午後6時杨元で率いた1000人を来援し、明軍は後退できられた、
この戦いの記述では朝鮮史を各に5、6000人の死傷、日本史は明軍の参戦20000人、斬首6000、清時代のある記述は死亡2万、“朝鲜《宣祖实录》によればこの戦いの後は明軍大勢依然と書いた

3月龍山の倭軍の食料の倉は明軍で焼かられた、倭軍は漢城から後退し、朝鮮半島の最南の釜山に至った
1592年7月まで倭軍は戦船の総計252隻は損失されたら
1593年6月まで飢饉や疫病のために南部を確保として日本の大使は北京に来た
7月日本大使は日本は中国に貢献するとの約束で明軍は東北に戻った
1593年5月8日、名古屋で豊臣秀吉は明の大使の沈惟敬と会見し
商談のことは小西行长との間に行われた
日本から出した要求…
迎大明公主为日本天皇后;
发展勘合贸易;
明、日两国武官永誓盟好;
京城及四道归还朝鲜,另外四道割让于日本;
朝鲜送一王子至日作为人质;
交还所俘虏的朝鲜国二王子及其他朝鲜官吏;
朝鲜大臣永誓不叛日本。

以上沈惟敬は容認した、そして同僚にそう話した、日本は中国の臣下になった、中国に貢献する
小西行長は中国はもう日本の要求を容認したと豊臣秀吉に告げた

1594年10月、小西行長の同僚の小西如安は北京に来た、中国の皇帝にサインすることを求める
明の兵部尚書はそう話した
日军在受封后迅速撤离朝鲜和对马;
只册封而不准求贡;
与朝鲜修好不得侵犯。

小西如安は容認した
そして沈惟敬は偽の日本の降伏の書を皇帝に致した、そして皇帝は豊臣秀吉を日本国王の称号をあげる発表された、小西如安で致した明細でいくつかの日本の官僚を任命した、そして、皇帝で書いた詔書を小西如安に日本に連れて来た
この詔書は今大阪博物館に保存している

それで中国の使者をん駆逐された
皇帝は真実を知ったから怒って朝鮮半島にまた出兵し

1597年8月、倭軍で泗川、南海、光州など陥落された、3000人の朝鮮軍と3000人の明軍は全滅された、それから全州、黄石山、金州、公州など陥落された、

稷山地区に解生で率いた2600人は黑田长政の一部と遭遇して、黑田长政を撃退して、毛利秀元で率いた大軍が来たために明軍は後退した
でも明軍の優れた野戦に恐れるために倭軍は前向きにしなかった、
この間、明軍は続々増兵し
それから倭軍は釜山まで後退した
中朝連軍は釜山に攻撃して失敗になった
それからも何度か中朝連軍は釜山に攻撃した

1598年10月豊臣秀吉は京都になくなった
明軍は捕虜された倭軍61名を北京で処刑された、首を全国に伝えた
《平倭诏》を発表した