“文章を書く”ことがいつの間にか好きになってた。
子供の頃は、読書感想文そのものの意味も分からず、読んだ作品の“あとがき”から引用したりしてた。
しかも、感想文の95%くらい引用してるから、僕の感想はほとんどゼロ。
だって、意味を分かんないから、書き方も分かんなかったんだもん。
でも、当時の感想は「面白かった」が精一杯。
頑張って肉付けしても「○○の部分が面白かった」程度。
もし小学校に落第制度があるなら、間違いなく、まだ小学生やってるかな。
そんな少年が大学生になりまして、いっちょ前に卒業論文なるものを書くことになりまして…。
今現在、大学卒業の肩書を持ってるので、その卒論も何とかクリアしたようなんですが、あらためて振り返っても、よくあの論文で単位を取れたな、と不思議に思う。
何も論じてない。
当時の僕が取った作戦は、“引用大作戦”。
あらゆる文献からいろいろと拝借しまして、繋ぎ合わせるのが僕の仕事でした。
論じ方が分かってなかったんですねぇ…。
論文って何?
論じるって何?
まずその単語から辞書を引くべきでしたね。
そんな僕が、作詞したり、台本を書いたりと、自ら文章を書くことを選んでその作業に当たっているというのは、当時の僕からは想像できませんね。
これに関しては、何かで勉強したわけではないんですけど、恐らくどこかのタイミングで気付いたんでしょうね。
演技もそうですが、10年くらい続けて、ようやくここ何年かで掴んだ感覚があります。
会心の何かがある分けではなく、少しずつの積み重ね、恐らく人生経験からも栄養を貰っていると思います。
“気付く”ことも必要でしょうね。
さてさて、それはそうと、新たな“気付き”がありましたね。
それは、自宅で作詞なり、脚本なりの作業に当たる時間が多くなるのと反比例して、日記を書かなくなること。
恐らく、まだ文章の書き手としての引き出しが少ないんでしょうね。
面白いことを思い付いたら、日記にするより作品に反映させたいという、貧乏臭い考えがそうさせているのかもされません。
どっちでも、そしてまた新しいジャンルでも、沢山の文章を書いて、表現力を磨きたいものです!!
子供の頃は、読書感想文そのものの意味も分からず、読んだ作品の“あとがき”から引用したりしてた。
しかも、感想文の95%くらい引用してるから、僕の感想はほとんどゼロ。
だって、意味を分かんないから、書き方も分かんなかったんだもん。
でも、当時の感想は「面白かった」が精一杯。
頑張って肉付けしても「○○の部分が面白かった」程度。
もし小学校に落第制度があるなら、間違いなく、まだ小学生やってるかな。
そんな少年が大学生になりまして、いっちょ前に卒業論文なるものを書くことになりまして…。
今現在、大学卒業の肩書を持ってるので、その卒論も何とかクリアしたようなんですが、あらためて振り返っても、よくあの論文で単位を取れたな、と不思議に思う。
何も論じてない。
当時の僕が取った作戦は、“引用大作戦”。
あらゆる文献からいろいろと拝借しまして、繋ぎ合わせるのが僕の仕事でした。
論じ方が分かってなかったんですねぇ…。
論文って何?
論じるって何?
まずその単語から辞書を引くべきでしたね。
そんな僕が、作詞したり、台本を書いたりと、自ら文章を書くことを選んでその作業に当たっているというのは、当時の僕からは想像できませんね。
これに関しては、何かで勉強したわけではないんですけど、恐らくどこかのタイミングで気付いたんでしょうね。
演技もそうですが、10年くらい続けて、ようやくここ何年かで掴んだ感覚があります。
会心の何かがある分けではなく、少しずつの積み重ね、恐らく人生経験からも栄養を貰っていると思います。
“気付く”ことも必要でしょうね。
さてさて、それはそうと、新たな“気付き”がありましたね。
それは、自宅で作詞なり、脚本なりの作業に当たる時間が多くなるのと反比例して、日記を書かなくなること。
恐らく、まだ文章の書き手としての引き出しが少ないんでしょうね。
面白いことを思い付いたら、日記にするより作品に反映させたいという、貧乏臭い考えがそうさせているのかもされません。
どっちでも、そしてまた新しいジャンルでも、沢山の文章を書いて、表現力を磨きたいものです!!