「こんにちは、八百屋です!」



20代中頃の爽やかな青年に声を掛けられた。
小分け用のビニール袋をぶら下げて、カゴを両手に抱え、その中には小さな箱があって、そこにはどっかのみかんの名前が書いてあった。





飛び込みで個宅やガソリンスタンドなどを訪問、通り掛かりの人にも声を掛ける、という販売方法だった。






数年前にアジアを旅した時のことのを思い出した。



ーーー窓ガラスの無いタクシーに乗っての信号待ち。



片側4車線の幅の広い道路で、僕は歩道から一番遠い車線にいた。





歩み寄って来た裸足の少女は、自分で作ったのだろうか、ミサンガのようなアクセサリーと、その辺で摘んだであろう小さな花を手に、言葉無しに「買って」と言った。





その日は旅の初日。
まだ旅慣れていない僕は、出国前にどこぞのガイドブックかホームページかで読んだ“対処法”に従い、少女を無視した。




胸が痛んだ。



けれど、到着したてでまだその国に飲まれていた僕には、それ以外の答えを導き出すことは出来なかったーーー






身なりこそキッチリしていたけれど、その八百屋は青年あの時の少女と重なって見えた。





買いに来るのを待っていては商品は売れない時代なのかな?





もしかしたらただの思い過ごしで、八百屋にとってはずっと続けている販売方法の1つでしかないのかもしれないけれど、なんだか衝撃を受けました。




いつまでもこんな過ごしやすい日常は続かないかもしれない。



不況に歯止めなんて掛からないかもしれない。



不況を不況なんて言ってられないかもしれない。



文化や生活は時代を逆行していくかもしれない。





そんなことを考えさせられた瞬間でした。