「―――潤、遅いな」

時計を見上げると、もうすでに夜中の12時を過ぎていた。

探偵事務所で働く潤は、その時の依頼によっては帰りが遅くなることは珍しくなかったけれど、そんなときは必ず前もってメールやラインで俺に知らせてくる。

今日は、確かにラインが来ていた。

『ちょっと遅くなる』と。

正確な時間はなかったけれど、たいてい『ちょっと』という時は夜の10時を過ぎることが多かった。



潤の携帯に何度電話しても留守電になってしまい、メールやラインにも返事がない。

ラインは読まれた形跡すらなかった。

こんなことは今までになかった。

なんとなく、胸騒ぎがした。

刑事の勘、と言ったら大袈裟だけれども・・・・

翔くんの携帯に電話してみる。

『―――え、まだ帰ってないの?潤』

電話の向こうの翔くんが、ちょっと驚いた声で言う。

「うん。今日は、どんな仕事だった?」

翔くんは、潤の勤める探偵社の社長だ。

本来なら依頼内容は社外秘なのだが、俺の場合は潤の恋人で刑事という職業のため、こっそり大まかな内容を教えてもらえることがあった。

『いや、今日は・・・・依頼された仕事は6時には終わったからすぐに―――』

「帰ったの?」

『いや・・・・昔の知り合いと飲みに行くとかって』

「飲みに?誰と?」

翔くんの話し方が、少し気になった。

仕事仲間でもある翔くんは、俺よりも潤といる時間が長くその分潤のこともよく知っている。

その翔くんが、潤のことで妙に歯切れが悪い。

いつもきっちりしている翔くんには珍しいことだった。

『・・・・俺も、気になってたんだ。今日、潤が帰ろうとしたその時、あいつの携帯にメールが来て。それを見て、あいつの顔色が急に変わったから、気になって誰からか聞いたんだ。そしたら、『昔世話になった人で、近くまで来てるから一緒にごはんでも食べようって』って。でも、それが誰なんだかはっきり言わなくて・・・・もっとちゃんと聞こうと思ったら、その時俺の携帯に電話がかかってきて。それに出てる間にあいつ、事務所を出ていっちゃったんだ』

「昔、世話になった人・・・・?でも、潤はそんなこと一言も―――」

『・・・・ちょっと、智くん出て来れる?』

「え?」

『俺も、潤の態度がちょっと引っかかってたんだ。今から事務所に来てくれない?潤の携帯には、GPS機能がついてるから俺のパソコンから追跡できる』

「わかった」

胸騒ぎは、悪い予感に変わっていた。

潤は、誰と会ってた?

どこへ行った?





「・・・・そのメールを見た途端、潤が顔を強張らせたんだ」

探偵事務所のパソコンを立ち上げながら、翔くんが口を開いた。

「顔色が悪くなって・・・・隠そうとしてたけど、でもあれは普通の状態じゃなかった。ごめん、俺がもっと気をつけてれば―――」

「翔くんのせいじゃないよ。そこまで気付いてくれてるんだから。潤は、翔くんにも俺にも知られないようにしたかったってことでしょ?それはやっぱり普通じゃないよ」

「・・・・・どこにいる?潤・・・・・」

2人でパソコンの画面に見入る。

表示された地図に、点滅するポイントが―――

「これは・・・・ホテルだな。駅前の、ビジネスホテルだ・・・・。よし、行ってみよう」

すぐに事務所を出ると、翔くんの車に乗り込み駅前のビジネスホテルへと向かった。

ごく普通のこぎれいなビジネスホテルだった。

どうして潤がここへ来たのか、考えている暇はなかった。

受付の男性に警察手帳を見せ、潤の写真を見せると、すぐにわかったようだった。

部屋を借りたのは別の人間だということだったが、潤は来てすぐに受付でその部屋を借りた人間が部屋にいるかどうかを確認したらしい。

そして、潤がその部屋へ向かったのが6時半過ぎ―――。

事務所を出てすぐにここへ向かったということだ。




「潤は、わざと受付で部屋の確認をしたのかもしれない」

翔くんが、エレベーターの中で言った。

受付から潤がいるはずの部屋へ電話を掛けてもらったが、応答はなかった。

「ここへ来る少し前にメールで呼び出されたとしたら、相手が部屋にいることはわかってたはずだ。それをわざわざ確認したっていうことは、自分がどの部屋へ行くか受け付けの人間に教えたということだ」

「・・・何かあるって、わかってたってこと?」

俺の言葉に、翔くんは頷いた。

「潤が、その相手に警戒心を抱いてる・・・・つまり潤が信頼してる人間じゃないってことだ。智くん・・・・・何があっても、冷静にね」

「・・・・翔くんもね」

エレベーターを降り、受付の男性とともに廊下を進む。

「―――こちらです」

男性が緊張した面持ちでこちらを振り返る。

「お願いします」

翔くんが言うと、男性は扉にカードキーを差し込んだ。

ピッという電子音が小さく鳴り、扉がガチャリと開く。



その異変には、すぐに気付いた。

扉が開いた瞬間すごい冷気が流れ出し、俺たちを襲った。

「え・・・・?」

受付の男性が戸惑った声を出す。

俺はその男性の腕を掴み、後ろへ下がらせた。

「そこにいてください。翔くん―――」

「うん。これは、冷房が―――」

「でも尋常じゃない」

俺たちは息を詰め、扉を開けると足音を殺し部屋の中へ入っていった。

「床が・・・・濡れてる」

扉を開けると通路のすぐ横にバスルームとトイレがあり、逆側にはクローゼットがあった。

その通路の先は寝室になっていて、じゅうたんの敷かれた床が見えたけれど、薄いグレーの絨毯は水でびしょ濡れになっていて、その水が通路の方まで濡らしていた。

静かに通路を進み、寝室へと足を踏み入れようとした時、それが目に入った―――



「―――潤!」

「潤・・・・?これは・・・・・」

翔くんはその場に呆然と立ち尽くし、俺は冷房の効きすぎた極寒のその部屋へ飛び込んだ。

潤は、部屋の壁にもたれかかるようにして倒れていた。

服装は、今日潤が着て出ていったものだ。

頭から全身びしょ濡れで、服は肌に張り付いていた。

両手首には手錠がはめられ、その手錠に括りつけられた紐が壁際に取り付けられたライトにひっかけられ、そこからつられたような状態で潤の両手が頭上に上がっていた。

ちょうど冷房の強い風が直撃しているその顔は、真っ青で生気がなかった。

「潤!潤!!しっかりしろ!!」

俺は駆け寄るとすぐにその紐をライトから外し、潤の肩を揺さぶり、その頬を叩いた。

翔くんがはっと我に返り、入口へ怒鳴る。

「警察と救急車を!!早く!!」

「潤!!!」





濡れそぼったその体も顔も、冷たく硬直しているかのようだった。

俺がどんなに呼びかけても反応はなく、まるで人形の様で・・・・・

潤がこのまま二度と目を開けないんじゃないか。

そんな絶望的な気持ちに襲われていた・・・・・。




しばらくして救急車と警察がホテルに到着し、担架に載せられた潤とともに、俺は病院へと向かった。

ちょうど部屋を出たところで、駆け付けたニノと顔を合わせる。

「大野さん!潤くんは!?」

「ニノ・・・・」

俺は何ともいえず、担架に横たわる潤を見つめた。

ニノが、担架の潤くんを見て不安そうに眉を寄せる。

「潤くん・・・・誰が、こんな・・・・」

手錠は、ベッドの上に置かれていた鍵ですぐに外された。

だがその手首には、痛々しく赤い痕が残っていた。

潤のスマホや、いつも持ち歩いているバッグもベッドの上に置かれていた。

手を伸ばせば、すぐに取れる場所。

だが潤はそれらを取ることはできなかった。

おそらく、何かの薬を飲まされているのだろうと救急隊員が言っていた。

「・・・・翔くんが、部屋にいるから」

俺の言葉に、ニノは頷いた。

「・・・・潤くんを、頼むね、大野さん」

俺は頷き、潤とともにホテルを後にしたのだった・・・・・。





「翔くん」

警察の人間が部屋の中を調べている間、俺は隣の開いていた部屋へと移動させられていた。

そこへ、ニノが入ってきた。

「ニノ・・・・智くんに会った?」

「うん、そこで。潤くん・・・・大丈夫かな」

走ってきたのか、ニノは汗が滴るこめかみを手で拭った。

季節は夏。
少し走れば汗が噴き出てくるほど暑かったけれど、潤のいた部屋は、まるで冷蔵庫の中のように冷え切っていた。

そこに全身ずぶ濡れの状態で放置されていた潤の体は冷え切り、呼吸は確認できたものの、まるで死体のように硬直したその体を目の前に、智くんは完全にパニック状態だった。

救急隊員が到着してもしばらくは潤から離れることができず、俺が無理やり潤からひきはがしたのだ。

いつも落ち着いている智くんからはまるで想像できない状態で、俺ももちろん冷静ではなかったと思う。

「・・・・潤くんが、ここで誰と会ってたのか、まったく・・・・?」

隣にいた刑事に俺は大体の事情を話していたので、ニノはその刑事から聞いていたのだろう。

「ああ・・・・。あのとき、ちゃんと潤に話を聞いてれば・・・・」

何度思い返してみても、それが悔やまれる。

「昔、世話になった人って・・・・潤くんはそう言ってたんでしょ?そういう話、聞いたことないの?」

ニノの言葉に、俺は首を振った。

「わからない。もともと、千葉に住んでたっていう話は聞いたことあるけど・・・・。両親は亡くなってるって聞いた。兄弟はいないって。両親が亡くなったのは潤が中学生の時だったって聞いたけど、その後は親せきの家をたらいまわしにされたって・・・・。その頃のことはあんまり話したくないみたいで、それ以上の詳しい話は聞いたことがないんだ」

「そっか・・・・。この部屋を取った人間の名前は偽名だったよ。受付の人間が覚えてる風貌も、帽子にサングラス、メガネをしていて身長が170くらいだったってことくらいしか覚えてなかった。声もぼそぼそしててよくわからなかったけど、たぶん男だったってことくらいしか・・・・」

「潤の携帯は?メールが来てたはずだけど―――俺が見た時には履歴が全部消されてたけど、それ、調べられない?」

「もちろん、やってみるよ。だけど、相手が計画的に潤くんを襲ったとしたら、それも予測してるかもしれない。だとしたら、何らかの防御策を事前にしてる可能性が高い」

「そこからもわからないとしたら・・・・・やっぱり潤が意識を取り戻すのを待つしかないのか・・・・・」

「そういうことだね・・・・。大丈夫だよ、潤くんが、大野さんを残して死ぬわけない。大野さんには、潤くんがいないとだめなんだから・・・・」

ニノが、まるで自分に言い聞かせるようにそう言った。

ニノの気持ちが、俺にも伝わってくる。

きっと、俺とニノは同じ気持ちだから。

智くんに潤が必要なように、俺にもニノにも、潤は大切な存在だった。

だからこそ、信じてた。

潤が、俺たちの前からいなくなるわけないって・・・・・・。



にほんブログ村
ランキングに参加しています♪お気に召しましたらクリックしてくださいませ♪


拍手お礼小話はこちらから↑