「おい、四男!」

教室の入り口から聞こえてきたその声に、俺は振り向く前から顔を顰めた。

だって、それが誰だかもうわかっていたから。

「おい四男ってば!こっち向けよ!」

いらついたその声に、俺はゆっくり振り向いた。

むすっとした顔で教室の入り口に立っていたのは、潤くんのクラスメイトの小栗旬だった。

「―――何だよ」

「お前ね、そういう態度良くないよ」

「うるさいよ。用件は?」

「あ!そうだ、ちょっと一緒に来てよ」

「はぁ?どこへ?」

つか、なんでお前と?

「いいから来いってば、四男!」

ぐいっと腕を引っ張られて、俺は反射的にその腕を振り払った。

「だからどこに!大体、四男ってなんだよ!」

「だって、松本いっぱいいるだろ?お前の兄貴たちと潤と!紛らわしいじゃん。それに、お前のことカズって呼ぶと潤が拗ねるし・・・・」

「え・・・・潤くんが・・・・?」

俺の言葉に、小栗は口を尖らせた。

「松本じゃ紛らわしいと思ってさ、潤がカズって呼んでるから俺もそう呼ぼうとしたのに―――『なんでお前がカズって言うの』って。まったく、兄弟同士で何ヤキモチ妬いてんだか」

―――ヤキモチ・・・・潤くんが・・・・

おもしろくなさそうに顔を歪める小栗とは反対に、俺のテンションは急上昇だ。

「まぁ、潤くんは俺のことが大好きだからね」

んふふと笑うと、小栗がますますむっとして俺の肩を叩いた。

「気持ちわりいっつーの!」

本気で叩かれたわけじゃないから痛くはない。

小栗とは、なんだかんだ潤くんを通して仲良くなっていた。

休みの日にもたまに小栗に誘われて遊びに行く潤くんに、気が気じゃなかったけど―――

そっか、潤くん、ヤキモチなんて妬いてくれてたんだ。

か~わいい。

「あ、で、どこに行けばいいの?」

「あ、そうだった!ちょ、来て来て!」

手招きしながら先に立って走りだした小栗のあとを、慌てて追いかける。

「だから、どこ行くんだよ!」

「美術室!」

「美術室?」

―――なんだってそんなとこに・・・・

「お前、聞いてないの?最近潤、美術の岡田のお気に入りでさ」

「―――は?」

岡田というのは、美術担当の教師だ。

30代半ばくらいの小太りな男で、銀縁のメガネの奥の目は澱んでいて何を考えているのかわからない男だった。

普段は物静かで、滅多に話している姿など見たことが無かったけれど―――




美術室の扉を、音をたてないようにそっと開ける。

10センチほどの隙間から覗き見ると、椅子に座り、キャンバスに何かを描いている岡田の後ろ姿が見えた。

そしてその岡田の前に、椅子を1つ置いて座らされている潤くんの姿が―――

俺が小栗の方をちらりと見ると、小栗も俺の方を見て頷いた。





『―――ここんとこずっと、昼休みになると岡田のやつ、潤を呼びだすんだ。絵のモデルになって欲しいとか言って』

その小栗の言葉通り、潤くんは岡田の絵のモデルになっているようだった。

『潤は真面目だから素直に岡田の言うこと聞いてるけど、あいつ、絶対怪しいんだよ!あの目、見ればお前もわかるだろ?あいつは絶対普通じゃない!けど、俺が止めてもダメでさ・・・・『1週間、絵のモデルになってくれって言われただけだから』って』

『潤くんが?』

『なんか、美術の授業中褒められたらしくってさ、すっかり信用しちゃってるんだよ。岡田の野郎、俺が見張ってようと思ってここまでついてきたら『人がいると気が散る』とか言って、美術室から追い出しやがって』





確かに、岡田という男は俺も信用できない。

あいつに見られると、虫唾が走るというか―――

とにかく、気分が悪くなるのだ。

何かされたというわけではないけれど、これは直感のようなものだった。

潤くんは、普段からあまり人を疑うということをしない。

自分を褒めてくれた人間となればなおさら、悪い人には見えなかったんだろう。

ただ、なぜモデルを頼まれたことを俺には言ってくれなかったんだろうと不思議に思った。

ここのところ、俺も昼休みはクラスの友達と遊んでたりして潤くんのクラスには行ってなかった。

でも小栗が意外としっかりガードしてるからと、油断していた・・・・。





「松本くんは、本当にきれいだねえ」

岡田と、ため息交じりに言うのが聞こえた。

その、陶酔したような声に思わずぞっとする。

潤くんは岡田の言葉に曖昧に笑い、首を傾げた。

「僕、別にきれいなんかじゃないですよ」

「いや、君はきれいだよ。艶のある黒髪も、透き通るような白い肌も、潤んだ大きな瞳も、ぽってりとした赤い唇も―――何もかもが、まるで現実のものとは思えないほど美しい」

岡田の褒め殺しに、潤くんは頬を赤らめ視線をそらせた。

「松本くん・・・・この週末は、何か予定はあるかい?」

「週末は、午前中に部活が―――」

「じゃあ、部活のあと僕の家へ来ないかい?」

「え・・・・先生のうちに?」

潤くんが驚いて目を見開く。

驚いたのは俺たちも同様だった。

―――あのエロ教師、なに言いだすんだ!

「ああ。やはり学校だと雑音が気になって集中できないんだ。僕の家には絵を描くアトリエがあってね。そこだったら集中できると思うんだ。だから、ぜひ君をアトリエに招待したいんだけど―――」

岡田がいやらしく笑うと、さすがに潤くんが戸惑って目を泳がせる。

今すぐこの扉を開けてあいつをぶっ飛ばしてやりたいけど―――

なるべくなら、潤くんを傷つけたくない。

あんなやつでも潤くんが信用してるならと、ぐっと堪える。

「あの・・・・それ、兄も連れて行っていいですか?」

「お兄さん?」

「はい。俺の、一番上の兄が絵の勉強をしてるんです。先生の絵を見たら、喜ぶかなって・・・・」

にっこりと無邪気に笑う潤くん。

―――ああ・・・・その笑顔は罪だよ、潤くん。

ほら、岡田の顔が引きつってる。

「いや・・・・他の人間がいると、気が散っちゃうんだけどな・・・・」

「ダメですか・・・・?」

「いや・・・・うん、できれば君だけに来て欲しいかな」

―――ずうずうしい男だな!

もうそろそろ限界を感じて、扉を開けてやろうと身構えていると―――

「う~ん・・・・じゃ、やめておきます」

と言って、潤くんがにっこりと笑った。

「え・・・・ど、どうして?」

岡田が焦って腰を浮かせる。

「だって、智と一緒に行けないなら先生の家行っても意味ないもん」

「い、意味ないって・・・・」

「もともと、先生の絵が智の描く絵と全くタイプが違うのが面白くって、智に見せたら興味湧くかなって思ったからモデルを引き受けたんだもん。先生が描いてくれた俺の絵を、智に見せたかったの」

瞳を輝かせながらそう話す潤くんに、岡田は呆気に取られていた。

「だから、モデルはやるけど先生の家には行けない。俺の兄貴たちってみんな心配性だから、俺が先生の家に行くって言ったらすごく心配すると思うから」

「心配って・・・・教師の家に行くのが、そんなに心配かい?」

そう言って、わざとらしく笑って見せる岡田に、潤くんは肩をすくめて事もなげに言った。

「だって、先生いかにも怪しそうだもん。このモデルだって、カズに知られたら絶対辞めさせられるよ」





「急に怒ることないじゃんね―」

屋上で、小栗から貰ったイチゴ・オ・レを飲みながら潤くんは口を尖らせた。

潤くんの一言で逆上した岡田が、顔を真っ赤にして『モデルはクビだ!!』と怒って潤くんに飛びかかろうとしたので、俺と小栗が飛び出して行って岡田を止めたのだった。

「カズと旬がいたなんて、全然気付かなかった。ありがとね、助けてくれて」

そう言ってのんきに笑う潤くんに、俺たちは溜息をついた。

「あのね、笑い事じゃないんだよ、潤くん。俺たちがいなかったら、あの変態教師になにされてたかわからないんだからね?」

「くっそー、やっぱりあいつ、校長の前に突き出してくればよかった!」

小栗が悔しそうに言うのを見て、潤くんは苦笑した。

「そんなことしたら、先生がクビになっちゃうじゃん。きっと、画家では食べていけなくて美術の教師になったんだろうから、職を失ったらかわいそうだよ」

―――潤くんは、たまに超現実的なことを言う。

そして、俺たちが思っているよりもちゃんと周りの状況を冷静に見ているんだ。

「・・・それを言うなら、潤くんがあいつに言った一言も相当堪えたと思うよ?あの人」

『先生いかにも怪しそうだもん』

俺でも、本人にそんなこと言えないよ・・・・。

「そうかな?」

目を瞬かせて首を傾げる潤くん。

意外とね・・・・言いにくいこと、はっきり言っちゃうとこがあるんだよね・・・・。

思ったことを、ストレートに口にしてしまう。

まぁ、よく言えば素直っていうことなんだけど。

だけど、あの先生が潤くんに抱いていた邪心までを気付いていたわけじゃない。

ただ、本当に素直に『怪しい』と思っていただけなんだよね・・・・。

「じゃ、あとで謝りに行ってくるよ」

―――こういうとこも、本当に素直。

「いや、それはやめといたほうがいいよ。先生もきっと他にモデルを探さなきゃいけなくて忙しいだろうし。そのうち忘れるんじゃない?」

そう言った俺を見て、「そうかなあ」と呟いていた潤くんだけど。

「潤、飴舐める?」

「うん!ありがと」

小栗に飴をもらい、途端に上機嫌になる。

小栗がちらりと俺に視線を向け、にやりと笑う。

俺も口の端を上げ、にやりと笑ってみせる。

ホント、潤くんは素直だよ。

そういうとこが、可愛くて、危うくて、放っておけない。

やっぱり、潤くんを1人にはできないね・・・・・。




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