【熊野】その15 八咫烏(ヤタガラス)は、スサノオに仕える神 | 開運行動すれば【その先、ヒカリ♥】

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八咫烏

(ヤタガラス)

 

 

『古事記』や『日本書紀』には

 

八咫烏が

 

三本足であるとは

記述されていない

 

 

咫(あた)は

 

長さの単位で、

 

親指と中指を広げた長さ

(約18センチメートル)

のことであり、

 

八咫は

144cmとなるが、

 

ここでいう八咫は

 

単に「大きい」という意味である

 

 

 

 

熊野本宮大社では、

 

八咫烏の三本の足はそれぞれ

 

天(天神地祇)

地(自然環境)

人を表し、

 

神と自然と人が、

同じ太陽から生まれた

兄弟であることを示す

としている。

 

また、かつて熊野地方に

勢力をもった

 

熊野三党

榎本氏宇井氏藤白鈴木氏)の威を表すともいわれる。

 

三本足の意味が、

古来より太陽を表す数が三

とされてきたことに由来する

とする見方は、

 

宇佐神宮など

太陽神に仕える

日女(姫)神を祭る神社

(ヒメコソ神社)の神紋が、

 

三つ巴であることと

同じ意味を持っているとする

説もある。

 

 

 

 

元々日本神話にあった

「神の使いとしての鳥」

の信仰と

 

中国の「太陽の霊鳥」が

融合した可能性がある

 

 

 

 

中国の伝説 三足烏

 

 中国では

前漢時代(紀元前3世紀)から

三足烏が書物に登場し、

王の墓からの出土品にも

描かれている

 

陰陽五行説に基づき、

二は陰で、三が陽であり、

二本足より

三本足の方が

太陽を

象徴するのに適しているとも

また、

朝日、昼の光、夕日を表す

足であるともいわれる

 

 

中国であるならば、金烏

 

朝鮮半島ならば、

かつて高句麗があった地域

(現在の北朝鮮)で

古墳に描かれているに

高句麗の人々は

三足烏が太陽に棲み、

亀が月に棲むと信じていた

 

 

八咫烏を三本足とする

最古の文献は、

 

平安時代中期(930年頃)の

 

倭名類聚抄」です

 

 

 

 

 

♦日本の八咫烏伝説

 

八咫烏は

『古事記』や『日本書紀』に

登場する

 

●「古事記」

 

高木大神によって遣わされた

 

高木大神

造化三神の一柱 高皇産霊神

 

兄宇迦斯・弟宇迦斯兄弟に

 

兄宇迦斯 えうかし

弟宇迦斯 おとうかし

 

神武天皇への帰順を求めるために

遣わされるが、

兄に鳴鏑で追い返されたとされる

 

『古事記』中巻

『日本書紀』巻第三ともに、

以下のような物語を伝えている。

 

 

神日本磐余彦天皇ー神武天皇のこと

(かむやまといわれひこ の 

すめらみこと)は

八咫烏(やた の からす)の導きと

道臣命

(みちのおみ の みこと)の働きで

辛くも

大和の菟田穿邑

(うだ の うがち の むら)に

辿り着いた。

 

『書紀』の暦によると、

 

磐余彦は

戊午年(紀元前663年)8月2日に、

 

菟田県(うだのあがた)の

魁帥(ひとごのかみ=首長)である

兄猾、弟猾兄弟を呼び出した。

 

しかし

兄猾はやって来なかった。

 

 

 

それどころか、

『古事記』によると、

 

 

遣いに出した八咫烏が

「今天つ神の御子(みこ)

幸行(い)でましつ。

汝(なれ)仕へ奉らむや」 

(今、天つ神の御子がおいでになった。

おまえたちは御子に

お仕えするのかどうか)

 

と呼びかけて来たのに対し、

鳴鏑(なりかぶら)を射返して、

追い返した

 

 

 

 

 

*******************

『古事記』 

 軍勢を集めようとしたが

集めることができなかった

 

 

『日本書紀』 

「皇師(みいくさ)の威(いきおい)」

をながめて、

とても敵しがたいと恐れた

*******************

 

という理由で、

正面きって戦うことを諦め、

 

かわりに

 

押機(踏むと挟まれて圧死する仕掛け)

のある新宮(大殿)をつくり、

もてなしをするかに見せかけて

 

磐余彦を殺そうと企んだ。

 

しかし、この奸計は

磐余彦の召しに応じた

弟猾によって報告された。

 

結果、道臣命(と大久米命)に

「自分が先に入ってみろ」と

剣と弓で

 

(『古事記』では

大刀のつかを握ったままで、

矛と矢とで)

 

脅され、

敢えなく自身の作った罠にかかり、

圧死してしまった

 

(『古事記』では、

打たれて死んでしまった)。

 

 

兄猾が死んだことにより、

その地は菟田(宇陀)の血原と

呼ばれるようになった

 

(『古事記』では

罠で死んだ兄宇迦斯の死体を

ただちに解体したから、

『書紀』は

兄猾の死体を引きずり出して

斬ったら、

血が踝(つぶなぎ=くるぶし)を

埋めるほどだったから、だという)。

 

 

弟猾は、

 

戦勝を祝って、

酒や牛肉を用意して、もてなしをした。

 

 

 

    

磐余彦は

 

『古事記』によると、

以下のような歌を歌った

 

(( )内は『書紀』の表記)

 

 

 

「宇陀(菟田)の 高城(たかき)に

 鴫羂(しぎわな)張る 

吾(我)が待つや 

鴫は障(さや)らず 

いすくはし 

鯨(くぢら)障る(鷹等障り) 

 

前妻(こなみ)が

 肴(な)乞はさば 

立柧棱(立蕎麦)の 実の無けくを

 こ(=扱)きしひゑね

(幾多(こきし)聶ゑね)

 

 後妻(うはなり)が 

肴(な)乞はさば

 柃(斎賢木、いちさかき)

 実の多けくを

 こきだひゑね(幾多聶ゑね) 

 

(以下は『古事記』のみ)

 ええ しやこしや 

此(こ)はいのごふそ 

ああ しやこしや

 此は嘲咲(あざわら)ふぞ」

 

 

(訳:宇陀の高城に鴫をとる罠をはって 

私が待っていると 鴫がかからないで 

(いすくはしの)

鯨(『書紀』では「鷹」)が

かかってしまった

 

 古女房がほしがったら 

(立蕎麦のような)

 実の少ないところを 

削りとってやれ 

 

若女房がほしがったら 

(ひさかきのような) 

実の多いところを

いっぱい削ってやれ

 

ええ、しやこしや 

これは憎み妬もうとする声で

あー、しやこしや 

これはあざ笑う声で)

 

 

 

 

    

『古事記』中つ巻 

「東征」より

 

日向(ひむか)を出発し、 

大和を目指した

神倭伊波礼毘古命

(かむやまといわれびこのみこと・

のちの神武天皇)が

宇陀(うだ)にやってきたときの

ことです。

 

 

この地には、

兄の兄宇迦斯(えうかし)と

弟の弟宇迦斯(おとうかし)という

兄弟が住んでいました。

 

神倭伊波礼毘古命の一行は、

 

八咫烏

(やあたからす=

神倭伊波礼毘古命を先導した

とされる大きなカラス)

をつかわし、

 

二人に「私にお仕えするか」と

問いただそうとします。

 

 

兄は、その使いを待ち構えて、

矢(鳴鏑・なりかぶら)で

追い返してしまいました。

 

さらに、軍勢を集め始めるのですが、

うまくいきません。

 

そこで、今度は、

わなを仕掛けた大きな御殿を作り、

「お仕えします」とウソをついて、

その中へ

神倭伊波礼毘古命一行を

おびき寄せようと考えます。

 


弟は、

神倭伊波礼毘古命のもとにいき、

そんな兄の計略を

すっかりお伝えしました。

 

すぐに、神倭伊波礼毘古命に

仕えていた

道臣命(みちのおみのみこと)と

大久米命(おおくめのみこと)が

兄を呼び出し、

「お仕えすると言うのなら、

その証拠に、

自分が最初に御殿の中へ入ってみろ」

と大刀や弓で脅しました。


兄は御殿へ追いやられ、

自分の仕掛けたわなに押しつぶされて

死んでしまいました。

 


さらに、その死骸は引きずり出され、

ばらばらに刻まれたといいます。

 

『古事記』には、

 

その血でそまった地は

血原と呼ばれるようになったとも

記されています。

 

一方、弟は、

お仕えするしるしに、

神倭伊波礼毘古命の一行に

ごちそうを差し上げました。

 

一見、

兄を裏切ったかのように見える

弟ですが、

 

運命がどちらにころんでも、

自分たちの一族が残っていくため、

兄弟はあえて

相対する行動をとったのかもしれません。

 

そんなふうに考えると、

兄も弟も

一族を思う気持ちの深さに

変わりはなかったと思えてきます。

 

 

 

 

 

 

    

一方

『日本書紀』では

 

兄磯城・弟磯城兄弟に

それぞれ帰順を求め、

 

兄には

 

「聞天壓神至而吾爲慨憤時、

奈何烏鳥若此惡鳴耶。」

 

と言われ

弓矢で追い返されてしまうが、

 

弟はこれに恐れて

 

「臣聞天壓神至、

旦夕畏懼。

善乎烏、汝鳴之若此者歟。」

 

と言い、

 

葉盤八枚に

食べ物を盛って烏に献上した。

 

それで

 

烏は

神武天皇のもとへ戻り、

兄磯城に反抗の心がある旨を

報告したと伝えている

 

 

 

 

 

『日本書紀』においては

その功が労われ、

 

頭八咫烏の子孫は

葛野主殿縣主

(かづののとのもりのあがたぬし)

となり、

 

劒根は葛城国造となっている。

 

 

 

 

 

 

    

『日本書紀』では

 

同じ神武東征の場面で、

 

金鵄(金色のトビ)が

長髄彦との戦いで

神武天皇を助けたともされており、

 

天日鷲神の別名である

天加奈止美命(あめのかなとみ)

の名称が

 

金鵄(かなとび)に通じる

ことから、

 

天日鷲神、鴨建角身命と

同一視する説も存在する。

 

また賀茂県主氏の系図において

 

 

鴨建角身命の別名を

八咫烏鴨武角身命としているが、

 

実際は

神武天皇と同世代の関係から考えて、

 

 

記紀に登場する

 

八咫烏とは

 

生玉兄日子命

のこととされる

 

 

 

 

 

熊野三山において

 

カラスは

 

ミサキ神

(死霊が

鎮められたもの

神使)

 

とされており、

 

八咫烏は

 

熊野大神(素戔嗚尊)に

仕える存在として

信仰されており

熊野のシンボルともされる

 

近世以前に

よく起請文として

使われていた

熊野の

牛玉宝印(ごおうほういん)

には

カラスが描かれている

 

 

 

 

 

 

日本神話の「東征」において

八咫烏は

 

瀬戸内海から近畿に進もうとした

神武天皇の道案内を

務めたとされる

 

神話の世界・ 神々の系譜 より

 

 

神武天皇は、

当初、西から

大阪に攻め入って敗れたため、

 

太陽神である

天照大神の子孫である自分たちは

西から東へ

日に向かうのではなく、

 

東から西へ日を

背にして攻め入るべきだ

と考えた

 

そこで八咫烏の案内により、

 

紀伊半島を大きく迂回して

現在の

新宮付近から攻め入ることにし、

 

その後、吉野を経て

橿原に行き大和朝廷を開いた

 

神話において、

八咫烏は

熊野の神の使いとしても

活躍する

 

孝霊天皇の御代、

山でイノシシを追っていた

「千代包」(ちよかね)

という名の猟師が

 

カラスに導かれて

大木をみいだし、

そこにみえた光に矢を向けると、

 

「私は熊野の神である」

という声が聞こえたため

 

その神を祀る社を建て、

その宮の別当

(熊野三山の管理職)になった

という

 

このときが、

熊野の神が

人々の前にはじめて

姿を現した瞬間だと伝えられる

 

 

    

新撰姓氏録』では、

八咫烏は

高皇産霊尊の曾孫である

賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)

の化身であり、

 

その後

賀茂県主(かものあがたぬし)の祖

となったとする。

 

奈良県宇陀市榛原の

八咫烏神社は

建角身命を祭神としている。 

 

また、

『山城国風土記』逸文によれば、

建角身命は

大和国葛城から山城国岡田賀茂を経て

洛北の賀茂御祖神社(下鴨神社)に

鎮まったとあり、

京都府木津川市加茂町には

岡田鴨神社がある。

 

戦国時代には、

紀伊国の雑賀衆を治めた

鈴木家の家紋・旗ともなっている

 

 

江戸時代の末には、高杉晋作が

 

「三千世界の烏を殺し、

主と朝寝がしてみたい」

という内容の都々逸を作成している。

 

これは、

 

熊野の

牛玉宝印の札の裏に

書いた

約束事を破ると

 

熊野のカラスが

一羽(または三羽)

死に、

 

約束を破った本人も

罰を受ける

 

とされていたことから

 

「ほかの男たちとの約束を全て破り、

熊野のカラスを

ことごとく死なせてしまうとしても、

あなたと朝寝をしていたい」

 

と、自らの生命を賭けて朝寝を選ぶ、

遊女の想いを表現したものである

 

 

 

 

 

那智勝浦町には

「八尺鏡野 やたがの」

という地区があります

八咫鏡の失敗作が行方不明です