猿田彦大神は、土公神 鹿島神宮と香取神宮、鬼満国 | 開運行動すれば【その先、ヒカリ♥】

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ニコニコ椿大神社の境内

高山土公神陵

つまり

猿田彦大神さまの御霊

お墓です

 

蛯原さまから

シェアさせて

いただきました

 

文は

蛯原春比古さまに

帰属します

マネはできません

 

よろしく

お願いいたします

 

 

 

 

『土公神は猿田彦の原型』

 

〜坂は境界・猿田彦と宇治土公

 

 

土公神は

中国古代の天文記録や星経の中においても

星の名称として散見され、

「営造及び稼穡起土の官」という

星神とみなされています。

 

【営造えいぞう】

大がかりな

土木建築などの工事を行なうこと。

造営。

建造。

営作。

 

【稼穡かしょく】

穀物の植えつけと取り入れ。

農業。農事。

 

【起土きと】

土を掘り起こすこと。

 

日本古代における

呪術的宗教文化受容の一考察 ― 

土公信仰を手がかりとして―張 麗山 

中日辞典 第3版 参考

 

 

今まで猿田彦の投稿で、

 

猿田彦は

古代中国の星宿『畢宿』を

神格化したもので、

 

西方白虎に属する星宿でもあり、

 

東から天空に昇るときには

觜宿や参宿(オリオン)を導く

位置にあること

ご紹介してきました。

 

 

觜宿や参宿は

海人の龍宮や、

五色の海亀に見立てられていて、

それは

神武天皇やウガヤフキアエズの母系の

出自を伝えるものでもあるのです。

 

また、畢宿であることは、

 

ニニギや山幸彦、

神武を導く重要な役割として、

 

猿田彦や塩土翁などと

名前を変え

 

度々神話にも登場しています。

 

 

また、猿田彦は

 

ニニギを道案内した後、

伊勢のアザカで海に入り、

三つの泡の神を吐き出します。

 

これは、アザカ(阿射加)で

田の神に戻るためであり、

本来の土公(参宿、オリオン)に戻った

とも言えるのです。

(阿は海人、射は稲の古語)

 

また、アサカは阿の坂ですから、

海(阿)との境目の坂ともいえます。

 

陰陽では

参宿を象徴する動物は

猿であり、

七曜は水になります。

 

故に伊勢の皇大神宮には

屋敷神であった猿田彦は

子孫である宇治土公によって

祀られていて、

 

土公神は

家宅の神でもあるので、

屋敷神とされていたのです。

 

【蹕ひつ】

さきばらい。

貴人の行列の先頭を行き、

前方の通行人をよけさせること。

 

【猿田彦神社 三重県伊勢市宇治】

日本神話によれば、

猿田彦神は

ニニギの天降りの先導を終えた後、

伊勢の五十鈴川の川上に鎮まった。

 

『倭姫命世記』によれば、

その子孫の大田命は

天照大神を祀る地として

倭姫命に五十鈴川川上の地を献上した。

大田命の子孫は

宇治土公(うじのつちぎみ)と称し、

神宮に

玉串大内人として代々奉職したが、

その宇治土公が邸宅内の屋敷神として

祖神の猿田彦を祀っていた。

 

明治時代に入り、

神官の世襲が廃止されることになって、

屋敷神を改めて神社としたのが

猿田彦神社である。

 

〜wik参考

 

 

古代中国では

家宅(建物、家)は

人間にとって重要な空間であり、

そこで活動する人々が

生活の平安や幸福のために、

 家宅の中心にある囲炉裏を

最も神聖な場所として、

先祖の霊が集まると考え、

鬼神を篤く祀っていました。

 

やがて、

家宅から土地の神として

変遷するのは、

 

文献資料では

漢代になってから現れ、

やがて五行神や農耕神の影響から

星神の性格を持つようになりました。

 

中国では失われた土公信仰が、

日本では

猿田彦や塩土翁という

導きの神、道祖神、久那土、

竈門神などとなり、

 

現在でも

複雑な神の性格を持ちながら

信仰として生き続けているのです。

 

 

『鬼神きしん』

 

死者の霊魂を

神として祀(まつ)ったものをいう。

 

これを「きじん」ともいうが、

その場合は荒々しい鬼の意として

使われることが多い。

オニガミということばは

恐ろしい神の意とされている。

 

『古今和歌集』の仮名序に

「力をも入れずして天地を動かし、

目に見えぬ鬼神をも

あはれと思はせ……」

と書かれている。

 

鬼神という語は

中国より伝来したもので、

その意義は多様である。

 

祖先または死者の霊魂をいうが、

幽冥界(ゆうめいかい)にあって

人生を主宰する神ともされており、

さらに

妖怪変化(ようかいへんげ)

ともみられている。

 

中国の古典には

いろいろと鬼神のことが述べられている。

 

 

たとえば

『礼記(らいき)』には

鬼神が天地、陰陽(いんよう)

あるいは山川と連想されたり、

併称されたりしている。

そして鬼神を祀ることが礼であるという。

 

この鬼神の語が

わが国に移入されたのであるが、

 

鬼は一般に

妖怪のように悪者とされている。

 

鬼退治の伝説、昔話が多く語られている。

 

大江山の酒呑童子(しゅてんどうじ)や

桃太郎の昔話などでよく知られている。

 

しかしその一方に、

戦場に赴く者が

「死して護国の鬼とならん」

などというのは、

中国の鬼神と相通じるものがあり、

 

人の過去帳に載るのを

「鬼籍に入る」という

漢語表現も使用されているのである。

 

[大藤時彦]日本百科全書 参考

 

 

 

猿田彦大神は

邇邇芸の導きを終えて、

伊勢の海で『田の神』に戻ります。

 

つまり、

 

久那土は

境界から海の禊ぎ

(海から星が昇る様、伊弉諾の禊ぎと同じ)

を終え、

土地神、田の神になれたのです。

 

 

それには

猿女(アメノウズメ、天の鈿)の

鎮魂の儀式(舞)が必要だったのです。

 

 

これは大嘗祭や新嘗祭にも繋がる

穀物の霊になる

儀式なのかもしれませんね。

 

つまり

国津神が

禍いをもたらす鬼神(祖霊)に

ならぬようにという儀式。

 

 

三ツ星を

禍々しい毒を消す

泡に見立てて

禊ぎをし、

参宿となったのです。

 

 

宿神は

境界の神、猿田彦であり、

 

それを田の神とした

秦河勝でもあるのですが、

 

星が土中を移動するという

天文観は、

おそらく推古朝の時に

観勒によってもたらされたのでしょう。

 

 

 

 

 

『東の海、椿海(つばきのうみ)』

 

遠い昔、

海上 (うなかみ)、

匝瑳 (そうさ)、香取 (かとり) の

三郡にまたがる枝をもった

大きな椿の木があった。

 

 

この木は、 

猿田彦命 (さるだひこのみこと) が

国を分ける時に、 

国境に植えたものだった

と伝えられている。

 

 

日本の三大木の一つに 

あげられているだけあって、

 いつも天上には

雲や霞 (かすみ) がかかり、

 昼でも夜のように暗かったそうだ。

 

鬼満国 (おにまんごく) の魔王は、

 

日本の国を滅ぼして、

自分の国にしようと、

この椿の木に住みついて

長い間狙っていた。

 

 

そこで、

海上の国におった

猿田彦命は、

 

香取の経津主命 

(ふつぬしのみこと)、

鹿島の建御雷命

 (たけみかずちのみこと)

 の力をかりて、

 魔王を退治することにした。

 

***************

 

ニコニコ塩土老翁神は

宮城県塩釜市の

陸奥国一之宮 鹽竈神社

祭神ですが

鹽竈神社の由緒に関心を持っていた

仙台藩4代藩主・伊達綱村は、

元禄2年頃から調査

(「神社御用」と呼ばれる)に着手し、

元禄6年に『塩釜社縁起』を完成させた。

 

この『塩釜社縁起』の中には、

 

「塩釜六所明神或曰

猿田彦事勝國勝

塩土老翁岐神興玉命太田命

六座同体異名神也」

 

とあり、

鹽竈神社の別宮に

祀られている神(塩釜六所明神)は、

猿田彦、事勝國勝、

塩土老翁、岐神、

興玉命、太田命の6座と

同体異名の神である

とされている

 

と、ありまして

猿田彦大神=塩土老翁神

ということですね

 

しかも

塩土老翁神の別宮と

左右宮

鹿島神宮と香取神宮の

祭神が祀られています

 

蛯原さまのお話は

案外

わたしの身近な神社の

話でもあります

 

実際

鹽竈神社には

七曲坂があり

その下には、猿田彦大神の

石碑があるのです

 

 

「鬼満国」はどこ?

 

 

 

***************

 

 

さっそく、 

二神は魔王に戦いを挑んで、

 天の鹿島弓 (かしまゆみ)

 という力の強い弓に、 

天の羽々矢 (ははや) という

 羽の広い大きな矢をつがえ、

 魔王目掛けて射った。

 

不意をつかれた魔王は、 

初め慌てていたが、

 もともと力の強い奴

 「ウォーツ」、 「ウォーツ」 と

唸 (うな) りながら、

 椿の 木を抱え込んで揺った。

 

「わさ、 わさ、 わさ、 わせ」 

木が動くたびに、

 天と地が引っくり返りそうに揺れた。

 

香取、鹿島の神様も負けてはいない。

天の羽々矢を打ち続けた。

 

魔王は、堪(たま)らず

椿の木を根こそぎ引っくり返して、 

東の海へ飛び去ってしまった。

 

そして、

 椿の木が抜けた跡に水が溜まり、

大きな湖となり、

 それが椿の湖と

言われるようになった。

 

 椿の木が倒れた方 向によって、 

 

上の方が上総 (かずさ)、

 下の方が下総 (しもふさ)

 と呼ばれている。

 

 

 

古代における

銚子周辺の重要性と

海跡湖「椿海」にまつわる伝説より

 

 

 

『椿は春の木、春は東、

つまり東の境界の木』

 

椿大神の猿田彦大神は

土公神です。

 

 

つまり、土地神であり、

境界にいる神、久那戸神ですね。

 

土地神は

農耕や天文から星神となっています。

 

これは

古代中国の星経(星座図)に

散見しています。

 

 

猿田彦大神の原型も

土地神や土公神、竈門神ですから、

 

猿田彦大神の神使いは

 

『竈』の『黽(モウ)』、

 

つまり

蛙になります。

 

 

ニコニコ二見ヶ浦ですよね~

 

 

 

星では

邇邇芸や神武、

彦火火出見(山幸)を導く時は

畢宿で

 

伊勢国のアザカに戻って

田の神になった時は

『土用三郎』、

参宿(オリオン座)になります。

 

 

これは海で溺れて

三つの泡の神を出して

土公から田の神に戻る事を意味します。

 

*鈴鹿市の椿大神社は

近江国と伊勢国の境界である

鈴鹿山脈の東、

入道ヶ岳の麓に鎮座しています。

 

同じように都波岐神社は

陸地と海の境界に鎮座する

伊勢国一ノ宮となっています。

 

伊勢市の猿田彦本宮は

度会氏の屋敷神だったものです。

 

土公神や竈門神は

土地神であり、

祖霊でもありますので、

屋敷神というのが

 

本来の姿かもしれませんね。