【和歌山の旅】6月16日 伊太祁曽神社と切り通し | その先、ヒカリ♥

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竈山神社から

伊太祁曽神社へ

 

 

 

わかやま電鉄 貴志川線

伊太祈曽駅

 

 

伊太祁曽神社

和歌山県和歌山市

 

紀伊国一宮

西国三社の一社

 

 

 

 

 

また、来れました!

駐車場は、鳥居をくぐり

奥にあります

 

続日本紀』の

文武天皇大宝2年(702年)の記事が

初見になる。

 

古くは現在の

日前宮(日前神宮・國懸神宮)の地に

祀られていたが、

 

垂仁天皇16年に

日前神・国懸神が

同所で祀られることになったので、

その地を明け渡した

と社伝に伝える。

 

その際、現在地の近くの

「亥の杜」に遷座し、

和銅6年(713年)に

現在地に遷座したと伝えられる。

 

 

五十猛神は

有功神

(いさおしのかみ

=大変に功績のあった神様)

とも呼ばれ、

紀伊国に祀られることとなった。

 

 

 

 

 

 

やはり、また

切り通しでしょ!

詳しくは

昨年のブログをどうぞ

 

 

 

 

ワクワクしますね~

この地層は!

そして、この地層のニオイ

なんとも言えません!

 

 

 

どう見ても、巨木が

土となったものでしょう

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ご近所の方に

お聞きしましたら

この切り通しをつくるにあたり

掘っているうちに

石が出てきて

どう見ても、地蔵さんだと

いうことで

お祀りしたそうですよ

 

突き当りの左側は

こんな感じで

 

 

 

そこで見つけた、雲母と

紀州青石を

いただいてきました

 

 

 

 

(jinja book)

 

 

神門

 

 

 

 

土台は、紀州青石

 

 

 

上のほうにありました

写真撮影が可能ですが

動画は✖

 

 

祭神 五十猛命

「イタケル」「イソタケル」と

読み方は

神社により異なり

統一されておらず、

 

紀伊国 一宮である伊太祁曽神社は

その御由緒で

イソタケルは誤りで

イタケルだと明記している。

 

一方で、

五十猛の上陸伝承のある

石見国五十猛村

(現在の島根県大田市五十猛町)が

好字二字令により

726年(神亀3年)に改称された際には

「磯竹」の字が当てられており、

少なくとも奈良時代以降は

イソタケルが主流

になっていたことが

示唆されている。

 

また、

射楯神(いたてのかみ)とも

呼ばれる

 

紀伊は

古来林業の

盛んな地であったので、

それらの人々が信仰していた神

と考えられる。

 

また、土の船を作り

海を渡ったことから、

造船、航海安全、大漁の神として

信仰された

 

紀伊国

(かつては「木の国」と言った)に

祀られているとの記述と

『先代旧事本紀』分注に

「亦云 大屋彦神」とあることから、

 

『古事記』で

大穴牟遅神

(オオナムジ、後の大国主)が

その元に逃げ込んだ

木国の大屋毘古神と同一神とされる

 

 

 

右脇殿 - 都麻津比賣命 

ツマツヒメの「ツマ」は

建物を築くために製材した材木を

意味する。

 

 

 

左脇殿 - 大屋都比賣命

 

オオヤツヒメの神名の「ヤ」とは、

家屋の事であり、

彼女が樹木を司る神であると同時に、

樹木から作られる建造物、

家屋や船などの神である事を

示している。

 

 

木種を全国に撒く事は、

子供を産む力を持った女性として、

彼女たちは生殖を司る神

でもある事を意味する。

 

『日本書紀』 卷第一

 

天(『古事記』では高天原)を

追放された

素戔嗚尊とともに

新羅曽尸茂梨に天降り、

スサノオが

この地吾居ること欲さず

(「乃興言曰 此地吾不欲居」)

と言ったので、

一緒に埴土船で渡って

出雲斐伊川上の鳥上峯に至ったとある。

 

五十猛神が天降る際に

多くの樹木の種を持っていたが、

新羅には植えずに

全てを持ってきて、

九州からはじめて

大八洲国に植えたので、

青山に被われる国となったという

 

同段の第五の一書

 

素戔嗚尊が

鬚髯から杉、胸毛から檜、

尻毛から槇と榧、

眉毛から楠など

体毛を抜いて作った各種の樹木を、

 

二柱の妹神

(大屋津姫命と枛津姫命)とともに

全国に植えたとある。

 

どちらの一書でも、

今は

紀伊に祀られているとしている

 

 

 

 

 平安後期に

28年に渡って院政を敷いた

鳥羽上皇が

山東荘を

新義真言宗の根来寺に

寄進したことから

根来寺と深い関係を築いた。


安土桃山時代の

天正年間(1573~1592)

織田信長と羽柴秀吉の紀州征伐での

根来攻めにより、

伊太祁曽神社も

戦禍に巻き込まれて被災したが、

後に豊臣秀吉の異父弟・

羽柴秀長により

社殿が再建が成された。

 

 

本居大平は

宣長の養子となった

江戸後期の国学者

 

寛政11年(1799年)

宣長の養子となり、

宣長の実子・本居春庭の失明後は

家督を継いだ。

また紀州徳川家に仕えて、

侍講などをつとめ、

古学館や国学所などの基礎を築いた

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

蛭子神社

 

 

 

氣生神社

五十猛命の荒御魂

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

御井社

今回は行きませんでした

 

 

祇園神社

 

 

 

 

 

 

 

 

この参道もまた

巨木の地層です

 

 

 

 

 

雲母も出ています

 

 

こちらは、古墳だと思います

入れません

 

 

どうして誰も

この地層のことを書かないのか

 

不思議だなあ

 

どう見ても

この地層なら

 

五十猛命を祀りたい

伊太祁曽神社を鎮座させたい

 

そう感じさせますよね

 

発見しました!

神奈備さんのサイト

 

 

7.なぞ2 

五十猛命はなにゆえ

伊太祁曽の地に遷ってこられたのか?

 

これに宮司さんのお話が

書かれています

おお~!