【和歌山の旅】6月15日 壇上伽藍 神仏習合の始まり① | その先、ヒカリ♥

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大伽藍へ

 

画像お借りしました

 

 

蛇腹道

 

 

(まっぷる より)

 

 

 

 

 

 

東塔が見えてきました

 

 

 

 

手水舎

 

 

 

東塔

 

 

 

 

三昧堂

 

 

 

西行桜

 

 

 

大会堂

 

 

大会(だいえ)堂

 

鳥羽法王の皇女である

五辻斎院(ごつじさいいん)内親王

というお方が、

父帝の追福のため建立されました。

 

もとは別の場所に

建立されていたのですが、

長日不断談義(ふだんだんぎ)の学堂

として

壇上に移し、

蓮華乗院(れんげじょういん)と

称するようになりました。

 

後にこの論議は衰退し、

現在では法会執行の際の

集会所的役割を担うようになりました。

 

現在の建物は

嘉永元年(1848年)に再建された

五間四面のお堂

 

 

 

 

愛染堂

 

 

建武元年(1334年)、

後醍醐天皇の綸命(りんめい)によって

四海静平(しかいせいへい)、

玉体安穏(ぎょくたいあんのん)を

祈るために建立されました。

 

本尊は愛染明王で、

後醍醐天皇の御等身といわれています。

 

昔はこのお堂で

不断愛染護摩供(ふだんあいぜんごまく)や

長日談義(ちょうじつだんぎ)が行われ、

「新学堂」とも呼ばれました。

 

このお堂も何度か罹災し、

現在の建物は

嘉永元年(1848年)に

再建されたものです。

 

 

 

 

根本大塔

 

お大師さま、

真然大徳(しんぜんだいとく)と

二代を費やして

816年から887年ごろに完成した

と伝えられます。

 

お大師さまは、

この大塔を法界体性塔とも呼ばれ、

真言密教の根本道場における

シンボルとして建立されたので

古来、根本大塔(こんぽんだいとう)と

呼んでいます。

 

多宝塔様式としては

日本最初のものといわれ、

 

本尊は胎蔵大日如来、

周りには

金剛界の四仏(しぶつ)が取り囲み、

 

16本の柱には

堂本印象画伯の筆による

十六大菩薩(じゅうろくだいぼさつ)、

四隅の壁には

密教を伝えた八祖(はっそ)像が描かれ、

堂内そのものが

立体の曼荼羅(まんだら)として

構成されています

 

 

根本大塔の中を

拝観させていただきました

 

 

 

有無を言わせない

発信力!

 

素晴らしかったです!

ひらめき飛び出すハートキューン

 

 

 

 

 

大塔の鐘

 

 

 

 

 

金堂

高野山御開創当時、

お大師さまの手により

御社に次いで最初期に建設されたお堂で、

講堂と呼ばれていました。

 

平安時代半ばから、

高野山の総本堂として

重要な役割を果たしてきました。

 

 現在の建物は7度目の再建で、

 

昭和7年(1932年)に完成しました。

 

梁間23.8メートル、桁行30メートル、

高さ23.73メートル、入母屋造りですが、

関西近代建築の父といわれる

武田五一博士の手によって、

耐震耐火を考慮した

鉄骨鉄筋コンクリート構造で設計、

建立されました。

 

 内部の壁画は

岡倉天心に師事し

日本美術院の発展に貢献した

木村武山(ぶざん)画伯の筆によって、

「釈迦成道驚覚開示

(しゃかじょうどうきょうがくかいじ)の図」や

「八供養菩薩像(はっくようぼさつぞう)」が

整えられました。

 

本尊の阿閦如来(薬師如来、秘仏)は、

洋彫刻の写実主義に関心をよせ、

江戸時代までの木彫技術に

写実主義を取り入れて、

木彫を近代化することに貢献された、

高村光雲仏師によって

造立されました。

 

 

 

 

六角経蔵

 

 

鳥羽法皇の皇后であった美福門院が、

鳥羽法皇の菩提を弔うため、

紺紙に金泥(きんでい)で浄写された

一切経を納めるために

建立された経蔵です。

 

この紺紙金泥一切経は、

美福門院が

その持費として

紀州荒川(現在の那賀郡桃山町付近)の庄を

寄進された事に由来して、

荒川経とも呼ばれるようになりました。

 

したがって、この六角経蔵は、

別名「荒川経蔵」といいます。

 

現在の建物は

昭和9年(1934年)2月に再建されました。

経蔵の基壇(きだん)付近のところに

把手がついており、

回すことができるようになっています。

この部分は回転するようにできており、

一回りすれば一切経を

一通り読誦した功徳が得る

といわれています。

この経蔵に納められた紺紙金泥一切経は、

重要文化財として

霊宝館に収蔵されています

 

 

 

 

 

 

 

山王院

山王院は御社の拝殿として建立された、

両側面向拝付入母屋造り

(りょうがわめんこう

はいつきいりもやづくり)の建物で、

桁行21.3メートル、

梁間7.8メートルあります。

 

山王院とは

地主の神を

山王として礼拝する場所の意味であり、

 

現在の建物は

文禄3年(1594年)に再建されたものです。

 

このお堂では、

毎年竪精(りっせい)論議や

御最勝講(みさいしょうこう)などの

重要行事や問答が行われます。

 

また毎月16日には

明神(みょうじん)様への

御法楽として、

月次門徒・問講の法会が

行われています

 

皆様は

根本大塔のほうが

ワクワクすると

思いますが

 

わたしは、この山王院が

非常にワクワクしてまして

 

 

裏手の明神さまたち

でしょうね~

 

弘法大師空海上人が

この高野山を求めて

やってきた時の伝説ですよ

 

 

 

 

お大師さまが

弘仁10年(819年)に

山麓の天野社から地主神として勧請し、

高野山の鎮守とされました。

 

高野山開創の伝承にもあるように、

 

高野山一帯は

元々この丹生(にう)明神の

神領であったと伝わります。

 

お大師さまは

密教を広めるにあたり、

日本の地元の神々によって

その教えが尊ばれ守られるとする

思想を打ち出され、

神仏習合思想の大きな原動力

にもなりました。

 

(ひらめき飛び出すハートこれですよ!)

 

 

 

高野山においても

修行者らを護り導くとされる

四社明神への信仰は

大変大切にされています。 

 

社殿は三つあり、

一宮は丹生明神、二宮は高野明神、

三宮は総社として

十二王子・百二十伴神がまつられています。

 

丹生、高野明神社の構造形式は

春日造で、

総社は

三間社流見世棚造

(さんげんしゃながれみせだなづくり)

と呼ばれ、

どちらも檜皮葺の屋根で

仕上げられています。

 

現在の社殿は

文禄3年(1594年)の再建で

重要文化財に指定されています。

 

 

 

高野山の開創にあたり

空海は

元々

丹生明神の神領であったので

山麓の天野社から

地主神として

丹生明神を勧請して

高野山の鎮守とされました

 

ここが

真言密教の聖地で

神仏習合の姿として

 

お寺に鳥居のある姿として

神仏習合を広めたと言える

のではないでしょうか

 

原点、なんです!

キューンキューンキューンひらめき飛び出すハート

 

 

研究論文 密教の仏と山における日本の神

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

西塔

 

 

お大師さまの伽藍建立計画案である

『御図記(ごずき)』に基づき、

 

高野山第二世である

真然大徳によって建立されました。

 

お大師さまは、大塔と西塔を、

大日如来の密教世界を具体的に表現する

「法界体性塔(ほっかいたいしょうとう)」

として

二基一対として

建立する計画をお持ちでした。

 

しかし、諸般の事情により建設が遅れ、

お大師さま入定後の仁和2年(886年)に

完成に至ったものです。

 

 西塔では、

大塔の本尊が

胎蔵大日如来であるのに対し、

金剛界大日如来と胎蔵界四仏が

奉安されています。

 

現在の塔は、

天保5年(1834年)に再建された、

擬宝珠(ぎぼし)高欄付多宝塔で、

高さは27.27メートルです。 

 

根本大塔 お大師さま、

真然大徳(しんぜんだいとく)と

二代を費やして

816年から887年ごろに完成した

と伝えられます。

 

お大師さまは、

この大塔を法界体性塔とも呼ばれ、

 

真言密教の根本道場における

シンボルとして建立されたので

古来、根本大塔(こんぽんだいとう)と

呼んでいます。

 

多宝塔様式としては

日本最初のものといわれ、

 

本尊は胎蔵大日如来、

周りには

金剛界の四仏(しぶつ)が取り囲み、

16本の柱には堂本印象画伯の筆による

十六大菩薩(じゅうろくだいぼさつ)、

四隅の壁には密教を伝えた

八祖(はっそ)像が描かれ、

堂内そのものが

立体の曼荼羅(まんだら)として

構成されています

 

 

 

 

鐘楼

 

孔雀堂

 

正治元年(1199年)、

東寺長者の延杲(えんごう)は、

後鳥羽法王の御願によって、

神泉苑(しんせんえん)にて

祈雨の修法を行い、

見事大願を成就されました。

 

その功績により

高野山へ建立すべき宣旨を受け、

翌年の正治2年には

本尊が奉安されました。

 

昭和元年(1926年)、

金堂より出火した大火によって

焼失しましたが、

昭和58年(1983年)には

弘法大師御入定1150年

御遠忌記念事業として

再建されました。

本尊の孔雀明王像は

快慶作で重要文化財に指定され、

現在は霊宝館に収められています

 

 

 

 

 

准胝堂

 

本尊の准胝観音は、

弘法大師が

得度の儀式を行う際の本尊として

自ら造立されたと伝えられています。

 

この准胝観音は、

伽藍が建立された当時、

食堂に安置せられていたと

伝えられています。

 

その後、天禄4年(973年)頃になって、

この堂が建立され、

移動されたということです。

幾たびも焼失しましたが、

現在の堂は

明治16年(1883年)に再建されました。

 

なお、このお堂では

毎年7月1日に、

准胝堂陀羅尼会(じゅんていどうだらにえ)と

呼ばれる法会が営まれています

 

 

 

 

御影(おみえ)堂

 

もとは、お大師さまの持仏堂として

建立されましたが、

 

後に真如親王直筆の

「弘法大師御影像」を奉安し、

御影堂と名付けられました。

 

桁行15.1メートル、梁間15.1メートルの

向背付宝形(ほうぎょう)造りで、

堂内外陣には

お大師さまの十大弟子像が掲げられています。

 

このお堂は

高野山で最重要の聖域であり、

 

限られた方しか

堂内に入ることは

許されませんでしたが、

 

近年になって

旧暦3月21日に執行される

「旧正御影供」の前夜、

御逮夜法会(おたいやほうえ)の後に

外陣への

一般参拝が許されるようになりました。