【和歌山の旅】6月13日 慈尊院 弘法大師空海上人の御母公 | その先、ヒカリ♥

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世界遺産 女人高野

弘法大師空海上人の御母公

 

慈尊院を目指しました

 

 

万年山 慈尊院

 

弥勒菩薩

 

弘法大師空海 御母公のお寺

女人高野

ユネスコ世界遺産登録

 

 

 

 

 

 

 

仏塔古寺十八尊第6番
紀伊之国十三佛霊場第6番
伊都郡四国八十八ヵ所第1番
神仏霊場巡拝の道第10番(和歌山第10番)

 

 

高野山参詣の要所に当たる

この九度山の雨引山麓に、

高野山への表玄関として伽藍を創建し、

高野山一山の庶務を司る

政所(寺務所)を置いて、

高野山への宿所

ならびに冬期避寒修行の場である

慈氏寺

(慈氏とは弥勒仏のこと)を建立した。

 

 

 

    

また、高野山の狩場明神と

その母である

丹生都比売大神も祀ることとし

 

慈氏寺の南側に

丹生高野明神社

(別名・神通寺)も設けた。

 

慈氏寺の壇(弥勒の壇)と

神通寺の壇(明神の壇)を合わせて

 

慈尊院と呼ばれた。

 

 

 

 

 

 

九度山町は、柿の産地

 

 

 

あじさいの鉢植えも

飾られて

楽しませていました

 

 

 

 

高齢となった空海の母・阿刀氏

(伝承では玉依御前)は、

 

讃岐国多度郡

(現・香川県善通寺市)から

 

息子の空海が開いた高野山を

一目見ようとやって来たが、

 

当時高野山内は

7里四方が

女人禁制となっていたため、

 

麓にあるこの政所に滞在し、

 

本尊の弥勒仏を

篤く信仰していた。

 

 

 九度山の由来

 

 

空海は

ひと月に9度

(正確に9度というわけではなく、

それだけ頻繁にということの例えだ

といわれている)は

必ず20数kmに及ぶ山道

(高野山町石道)を下って

政所にいる母を訪ねてきたので、

 

この辺りに

九度山」という地名が付けられた

といいます

 

 

大師堂

(四国堂) 

弘法大師像の他、

四国八十八箇所

それぞれの札所の本尊を模した

88体の像を祀る

 

 

 

 

鬼子母神堂

 

 

これまた、ご縁が!

父方祖母は

鬼子母神さまを

東京にいたころ、よく参拝して

いました

仙台に帰ってきて

結婚して、自宅の門に

ザクロを植えたくらいですから

 

 

 

 

(大日塔、和歌山県指定有形文化財) 

 寛永元年(1624年)再建

 

 

 

 

 

 

拝堂

 

 

 

 

本堂

(弥勒堂、重要文化財) 

御廟とも呼ばれる。

鎌倉時代後期の再建。

桁行三間・梁間三間、一重、

宝形造・檜皮葺。

 

 

 

 

    

空海の母は

承和2年(835年)2月5日に

死去したが、

 

そのとき空海は

弥勒仏の霊夢を見たので、

 

廟堂を建立し

自作の弥勒仏像と母公の霊を

祀ったという。

 

弥勒仏の別名を

「慈尊」とも呼ぶことから、

 

この政所は

慈尊院と呼ばれるようになった。

 

 

 

 

    

空海の母が

この弥勒仏を

熱心に信仰していたため、

入滅(死去)して

本尊に化身したという信仰が

盛んになり、

 

慈尊院は

女人結縁の寺として

知られるようになり、

 

女人の高野山参りはここ、

ということで

「女人高野」とも呼ばれている。

 

 

 

高野山の政所に関して

「慈尊院」という名称が

文献に現れた最も早い例は

 

三条実行(藤原実行)の

『鳥羽上皇高野御幸記』で、

天治元年(1124年)、

鳥羽上皇が

当地に行幸し、

慈尊院の由来について

尋ねたことが記されている

 

女人高野 研究調査

 

 

 

 

 

 

子宝、安産、育児

乳がん治癒祈願などの御利益

 

おっぱい御守りもあります

 

 

 

 

 

 

 

高野山の案内犬であったゴンもここに眠っています

 

ゴンは

白色の紀州犬と柴犬の雑種の雄で、

住所不定の野良犬でしたが、


昭和60年代(1985~1989)に

慈尊院近くに住着き、

慈尊院から聞こえる
鐘の音を好んだことから

「ゴン」と呼ばれるようになりました。


最初の頃は

九度山駅と慈尊院の間を

案内するだけでしたが、

いつしか慈尊院をねぐらとして、

高野山町石道の約20kmの道のりを朝、

慈尊院を発って、

夕方に高野山上の大門まで道案内し、

夜には慈尊院に戻るという

毎日を送るようになりました。


約1200年前の弘法大師の時代にも

高野山の案内犬がいた

という伝説があり、

ゴンは
その再来・生まれ変わりとして

参詣者から愛されましたが、
平成14年(2002)6月5日に

息を引き取りました。

 

と、あります

 

 

 

 

大辨財天女

正一位 高喜大明神

 

 

後藤角女 ?

 

 

 

 

 

 

ご縁玉を賽銭しました!

 

 

 

 

拝堂の入口は

高野山に向いています

 

撮影禁止です

 

御本堂の弥勒菩薩さまを

拝します

 

御母公の像もあります

 

文明6年(1474年)、

御廟を現在地に移す。

 

天文9年(1540年)、

紀ノ川の氾濫により

慈尊院の堂舎は大半が流れてしまい、

弥勒檀(現在地)に移転する。

 

その際、高野山が

政所の事務を山上に移し、

当院の宝物も山上に移された。

 

天文13年(1544年)7月、

再び紀ノ川が洪水を起こし、

残っていた移転前の建物は全て流された。

 

と、あります

 

 

 

 

 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

爪剥酒の由来
弘法大師の御母公

「玉依御前(阿刀氏)」は

 

大師の身を案じられて
遠く讃岐の国より

高野山山麓の

慈尊院(じそんいん、
現在の和歌山県伊都郡九度山町)に

来住されました。


御母公は、

日々大師の身を気遣い、

秋になると里で穫れた

穀物の
籾(もみ)を一粒一粒、

御手ずから爪剥(つまむ)かれ、
醴(れい,酒)を醸(かも)され、

大師に贈られました。


大師は、この酒を

『爪剥酒(つまむきのさけ)』

と号されました。


この故事にあやかり、

健康を願い、先祖を供養し、
子孫の繁栄を招来するよろこびの酒です。