明日香の蘇我氏の四つの墓と名前 | その先、ヒカリ♥

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蛯原さまの考察

シェアさせて

いただきました


ありがとうございます





『蘇我氏四代の名前に隠された意味』

 完結編

 〜明日香の蘇我氏の四つの墓と名前




 蘇我氏の出自は


葛城ですから、


百済の道教と仏教、

つまり渡来の土地神の信仰が

源流にあると考えられます。


(現在の地鎮祭、地霊鎮めの

信仰に近いものです) 


 蘇我氏氏宗家四代の陵墓

(稲目、馬子、蝦夷、入鹿)が


東と西の明日香の出入口に

築かれたのは、

明日香(都)の門番となるように、

或いは自らが亡くなった後に

明日香の土地神

(守護神、家宅の神、門の神)に

なるために作られた

と考えられます。


 これは崇神期の墨坂や大坂に祀る、

国の境目の神

(久那土、土公神、鬼神)

と同じなんです。



 正しく祀る事で

子孫が繁栄する、


明日香という土地が

未来に残されるため、

境界を守護する意味が

あるのかも知れません。


 また、孝徳天皇が

大化の改新の一環の

難波への新宮を造営する地鎮祭では、

安宅神呪経を

2100人以上の尼僧に読経させているのは、

都を明日香から移すだけでなく、

禍いが起こらないように

地霊を鎮める意味がある

と考えられます。



 これは、

不慮の死を遂げた人の霊は

禍いをもたらす鬼神となる土公信仰により、


蘇我親子(蝦夷、入鹿)の霊を 

鎮める意味でもあったのかも知れません。

 

 何故なら、

蘇我蝦夷、入鹿親子は

乙巳の変で亡くなっているからです。 



 *皇極3年(644年)には、

蝦夷と入鹿が

甘樫丘に邸宅を並べ立て、

これを

「上の宮門」、「谷の宮門」と称していた。 


 【蘇我馬子の馬子】

 庚午

(かのえうま、火気、

甲子から数えて7番目)から

丙子

(ひのえね 、水気、13番目)までの

7日間を

大犯土(おおづち、大土)、


戊寅(15番目)から甲申(21番目)までの

7日間を

小犯土(こづち、小土)という。 


 その間の丁丑(14番目)を

間日(まび)、

犯土間日(つちまび)、

中犯土(なかづち)

といい、

この日は犯土には含まれない。


 あるいは

犯土には含まれても

犯土の禁忌は存在しない。


 犯土期間には

土公神(どくじん)が

本宮、あるいは土中にいるため

土を犯してはならない。


 午(馬)→子(ね)、

馬子の名前は

大犯土の期間という意味になります。




 【蘇我蝦夷の蝦】

 かえる 、かへる【蛙・蛤・蝦】 


両生綱無尾目に属する動物の総称。

 外形は頭、胴の二部からなり、

胴部には四肢(しし)をもち、

前足に四本、後足に五本の指をもち、

しばしばみずかきがある。

 幼生はおたまじゃくしと呼ばれ、

水中で暮らすものが多い。 

成体は水から離れるものもいる。 

水田、沼などに多く見られるが、

樹上や地中にすむものもある。

 トノサマガエル、ヒキガエル、

ウシガエルなど種類は多く、

食用、または美声のため

飼育される種もある。 

かわず。びき。ひき。

かいる。かえら。 


 書紀(720)応神一九年一〇月(熱田本訓)

「夫れ国樔は其の人と為り

甚だ淳朴(すなほ)なり。

 毎に山の菓を取りて食ふ。

 亦蝦蟆(カヘル)を煮て上(よ)き味と為」。 


つまり、蝦夷とは


土蜘蛛(土公)の料理、供物。


 竈門神の竈は

土の穴にいる黽(蛙)になります。 


 【土鴨】
あおがえる(青蛙)の異名。
https://www.facebook.com/100008023930727/posts/3275922302685202/?d=n 



 【蘇我入鹿の入鹿】

 気比大神のイザサワケは、

仲哀天皇・神功皇后・応神天皇と

深いつながりにあることが

『古事記』『日本書紀』によって知られる。


 両書では、

仲哀天皇が

角鹿に行宮として「笥飯宮」を営んだ

とあるほか、

天皇の紀伊国滞在中に

熊襲の謀叛があり

角鹿にいた神功皇后を出発させたと見え、

角鹿の地が登場する。


知らんぷりここにも、紀伊国が。


 神功皇后は、

仲哀天皇の突然死を経て

新羅に遠征(三韓征伐)、

帰途に

太子(誉田別尊、応神天皇)を産んだ。 


そして、

皇后と太子が

ヤマトへ戻る際に謀叛があったが

無事平定し、

太子は

武内宿禰に連れられて

禊のため気比神に参詣したという。


 以上のように、

歴史の早い段階から


気比神が

朝廷の崇敬を受ける神

として登場しており、

一連の出征の始まり・終わりを

成したことから

古くは

軍神として崇敬されたとも見られる。 



 『古事記』では

その後の経緯として、

武内宿禰に連れられた

太子(応神天皇)は

イザサワケと名の交換を行った

とする(易名説話)。


 説話によれば、

太子が

角鹿(敦賀)の仮宮を営んでいると、

夜の夢にイザサワケが現れて

名を交換するよう告げられた。


 太子が承諾すると

イザサワケは翌朝に浦に出るように言い、

太子が言われたとおりにすると

浦には一面に

イザサワケの献じた

入鹿魚(イルカ)があった。 


 これにより

太子は

イザサワケを

「御食津大神(みけつのおおかみ)」

と称え、

のちにその名が

「気比大神」となったという。


 *社伝では、

上古に主祭神の伊奢沙別命は

東北方の天筒山に霊跡を垂れ、

境内北東方にある

『土公の地』に降臨したという。


 そして『気比宮社記』によれば、

仲哀天皇の時に

神功皇后が三韓征伐出兵にあたって

気比神に祈願をすると、

海神を祀るように神託があり、

皇后は

穴門に向かう途中で

海神から干・満の珠を得た。 




ちょっと不満住吉大社の、大海神社

干満の珠、ですよね

 


【イザサワケは春秋去来の神】


 春秋去来の伝承は

屋敷神の成立に

深いかかわりをもっているとみられる。 


屋敷神の成立自体は

比較的新しいが

(家宅神は古くから成立している)

神格としては

農耕神・祖霊神との関係が強いとされ、

特に

祖霊信仰(鬼道、竈門神)との

深い関連が指摘される。 


 日本では、古来、

死んだ祖先の魂は

山に住む?と考えられてきたため、

その信仰を基底として、

屋敷近くの山林に

祖先をまつる祭場を設けたのが

屋敷神の端緒ではないか

と説明されることが多い。 


ちょっと不満確かに、わたしの住む仙台も

イグネという屋敷林が

農家にあり

その中に、祖先の墓が祀られているし、

屋敷神も祀られている



 古代にあっては一般に、

神霊は一箇所に留まらず、

特定の時期に特定の場所に来臨し、

祭りを受けたのちは

再び還るものと信じられていた。 


 また、現在ならば

「姓」と称されるものも、

かつては

「同苗(どうみょう)」や

「苗字(みょうじ)」という

用法があったように、

東北地方の民俗例でみられる

播種の際の戸別の

「苗印(なえじるし)」は、

田の神の依り代であると同時に

家ごとに異なり、 

その点ではまさしく

祖霊の神、家々の神であった。 


 屋敷神の祭祀の時期も、

一般に春と秋に集中し、

後述するように

農耕神(田の神)のそれと重なっている。 

 その一方で

農耕神もまた祖霊信仰のなかで

重要な位置を占めるようになった。

 こうして

屋敷神・農耕神・祖霊神の三神は、

穀霊神(年神)を中心に、

互いに密接なかかわりをもつことと

なったのである。


 つまり、

入鹿(イルカ)は

土公神の海の贄であり

供物を意味します。

https://www.facebook.com/100008023930727/posts/3278316769112422/?d=n 



 何故?菖蒲池古墳の石棺の蓋が

家の屋根の形なのか、

それは

家宅の神、竈門の神、土公神の家

だからなんです。 


後の土塔(頭塔)も

堅牢地神の家と考えられるのですが、

それは

土公神が道教だけでなく、

堅牢地神や竈門神として

仏教とも深く結びついているから

なんです。 


 朝鮮半島の方墳が四角いのは

石塚、土塚であり、

天円地方の概念から

土公が地の神という意味で

『地方』の四角であり、

四神を配置する星神との関係にも

なっているんです。 


 犯土の観念には


大地の泉、石、土をそれぞれ、

土公の血、骨、肉として

比喩しています。


(太平経に記載) 

 故に石塚は石積みであったり、

土塚には石舞台のように

巨大石組を

土公の骨に見立てていたりして、

その規模の大きさを見せつけいるのです。

(或いは竈門のように)


 蘇我氏は

亡くなった後も自らの身体を贄とし、

土地(国土)を守護する神となる事を

願っていたのかもしれませんね。 



 *安宅神呪経とは(簡単に) 

 離車という名の長者が、

仏さまのもとに赴き、

家に取り憑いた諸神や悪鬼のために

災禍があり、苦しんでいると訴え、

これらの災禍を取り除いてほしいと

お願いするのです。 

 仏さまは、

その願いを聞き入れ、

長者の家に行き

守宅の諸神を呼び、

その妄動をいましめ諭されたことが

お経の中に説かれています。 

 ここで先ず示されるのは、

人間のみならず、

土地の神、家の神も迷いの存在である、

ということです。

 だから、時として

人間にも災禍をもたらすのです。

 仏さまは、

慈悲をもって諸神、悪鬼の迷いを除かれ

安穏ならしめることによって、

その家に住む人々も

安穏に暮らすことができるのです。


 諸神、悪鬼を退治するという、

単純な勧善懲悪の話ではありません。



 ところが、

経典の構成をもう少し

詳しく訪ねますと、

もっと深い意味のあることが

知らされます。


 土地の神、家の神の迷いと

いいましたが、

それらは

人間自身の迷いでもあります。


 お釈迦さまは、

家に吉凶があるかないか、と問う

離車長者に

 「諸々の事項は

みな衆生の心行に由って生じる」

 と説かれます。

 つまり

色んな災いや不幸は

土地の神、家の神の所為ではなく

自分の心がおこす妄念が原因だと。


 〜奄美のお寺さん 

寂心庵ブログより 



 土公とは

陰陽道における土地神の意味であり、


『安宅神呪経』に説く

五帝龍王(土府伏龍)をいいます。


 真言密教では

十二天中の地天に習合して

〈五土公神〉となし、

これに供じて

土地を請い受けんとする作法。 


 孝徳天皇

(こうとくてんのう、

旧字体:孝德天皇、

596年〈推古天皇4年〉

- 654年11月24日

〈白雉5年10月10日〉)は、


日本の第36代天皇

(在位:645年7月12日

〈皇極天皇4年6月14日〉

- 654年11月24日

〈白雉5年10月10日〉)。 


 諱は軽(かる)。 


その在位中には

難波宮に宮廷があったことから、

後世その在位時期を

その政策

(後世でいうところの大化の改新)などを

含めて

難波朝(なにわちょう)という

別称で称されることがあった。


 敏達天皇の孫で

押坂彦人大兄皇子の王子、

茅渟王の長男。

 母は欽明天皇の孫で

桜井皇子の王女、吉備姫王。

 皇極天皇(斉明天皇)の同母弟。

 天智天皇(中大兄皇子)

・間人皇女・天武天皇(大海人皇子)の叔父。 

姪・間人皇女を皇后にした。 

阿倍倉梯麻呂(阿倍内麻呂)の娘の

小足媛を妃として、有間皇子を儲けた。

他に子女は確認されていない。

蘇我倉山田石川麻呂の娘の

乳娘(ちのいらつめ)を妃とした。


 『日本書紀』の評によれば、

天皇は仏法を尊び、神道を軽んじた。


 柔仁で儒者を好み、

貴賎を問わずしきりに恩勅を下した。

 また、蘇我入鹿を避けて

摂津国三島に引きこもっていた

中臣鎌子(後の藤原鎌足)が

即位前の軽皇子時代に

接近していたことが知られる

(『日本書紀』皇極天皇3年正月乙亥朔条)。


 皇極天皇4年6月12日(645年7月10日)に

乙巳の変が起きると、

翌々日に

皇極天皇は中大兄皇子に位を譲ろうとした。

 中大兄は辞退して軽皇子を推薦した。 

軽皇子は三度辞退して、

古人大兄皇子を推薦したが、

古人大兄は辞退して出家した。

 14日の内に

皇極天皇から譲位を受け、

軽皇子が即位した。 

大王の譲位は前代未聞であった。

 前の大王である皇極天皇に

皇祖母尊(すめみおやのみこと)という

称号を与え、中大兄を皇太子とした。

 阿倍内麻呂(阿倍倉梯麻呂)を左大臣に、

蘇我倉山田石川麻呂を右大臣にした。

 中臣鎌子(藤原鎌足)を内臣とした。

 6月19日(645年7月17日)、

皇祖母尊・皇太子と共に

群臣を集めて忠誠を誓わせた。

 史上初めて元号を立てて

大化元年とし、

大化6年2月15日(650年3月22日)には

改元し、白雉元年とした。 


『日本書紀』が伝えるところによれば、

大化元年から翌年にかけて、

孝徳天皇は各分野で制度改革を行なった。 

 この改革を、後世の学者は

大化の改新と呼ぶ。 


この改革につき

書紀が引用する改新之詔4条のうち、

第1条と第4条は、

後代の官制を下敷きにして

改変されたものであることが分かっている。


 このことから、

書紀が述べるような大改革は

このとき存在しなかったのではないか

という説が唱えられ、

大化改新論争という

日本史学上の一大争点になっている。


 孝徳天皇の在位中には、

高句麗・百済・新羅から

しばしば使者が訪れた。 


従来の百済の他に、

朝鮮半島で守勢にたった

新羅も使者を送ってきた。 


北の蝦夷に対しては、

渟足柵・磐舟柵を越国に築き、

柵戸を置いて備えた。


 史料に見える

城柵と柵戸の初めである。


 孝徳天皇は

難波長柄豊碕宮(大阪市中央区)を造営し、

そこを都と定めた。

 白雉4年(653年)に、

皇太子(=中大兄皇子)が

大王に対して倭京に遷ることを求めた。 

大王がこれを退けると、

皇太子は

皇祖母尊と大后(皇后・間人皇女)、

大海人皇子を連れて倭に赴いた。


臣下の大半も

皇太子に随って去ってしまい、

気を落とした大王は、

翌年病気になって崩御した。


 〜wik参考 



 【蘇我稲目の稲目とは】 


万葉集 

「相見らく飽き足(だ)らねども

稲目(いなのめの)明けさりにけり

船出せむ妻」


 語源およびかかり方については

諸説ある。 


「いな(寝)のめ(目)」が

朝方に開くから

「(夜が)明く」にかかる。 


「いなのめ」は

「しののめ」(暁方の意)と同義で、

あるところからとする。


 「いな(稲)のめ(目)」

(稲の穂の出始める意)を

夜明けにたとえるところからとする。


 「イナ(鯔、ボラ)のめ(眼)」が

赤いところから

「赤」と同音の「明」にかかる。 


 採光、通風のために、

稲藁を粗く編んだ

むしろのすきま(稲の目)から

明け方の光がさし込むところから、など。 


 ボラは

山幸彦(ヒコホホデミ)の針を

のんだ魚として登場していますね。 


つまり、

常世(冥界、龍宮、龍は

地上と天空を往来するので、

天空ではオリオンになります)の魚が


イナメ(ボラ)なんです。 



 *土佐日記のイナメ

 承平5年(935)の元旦を

土佐の大湊で迎えた紀貫之一行は、


 「けふ(今日)はみやこ(都)のみぞ

おも(思)ひやらるる。

こへ(小家)のかど(門)のしりくべなは

(尻久米縄、しめ縄)の

【なよし(鯔、ボラ・イナ)】のかしら(頭)、

ひゝらぎ(柊)ら、

いかにぞとぞい(言)ひあへなる」


 と(『土佐日記』)。



 今日でも、

節分に

イワシ(鰯)の頭をヒイラギの枝に刺して

家の戸口に置き、魔除けとしていますが、 

平安時代は

柊に

『なよし(ボラ、イナメ)』だったんですね。



 【蘇我 堅塩媛 

(そが の きたしひめ、生没年不詳)】 



飛鳥時代の皇妃。
欽明天皇の妃。 

蘇我稲目の娘。 

子に用明天皇、推古天皇など。

 なお、なぜ

「かたしお」

(片塩:大和高田市にある

安寧天皇の宮があった古地名、

あるいは固めた塩)でなく、

「きたし」と読むかは不明。


 〜wik参考 



 堅塩を『きたし』とするのは、

野見宿禰が

土部100人を当麻の地に住まわせ

製塩土器を作られた場所

『鍛地(かたしどころ、きたしどころ)』に

由来します。


 塩は

酒と同じで古代より呪術性があり、

土と深く関わりがあります。 


さまざまな製塩土器が

出土しているように、


製塩自体が

記紀神話の伊弉諾、伊奘冉の二神の

国産み神話の

『天浮橋(あめのうきはし)の上に立って

矛(ほこ)を差し降ろし、

海水をかき混ぜて引き上げると、

矛先からしたたり落ちる

塩が重なり積もって島ができた』

とあり、

これは海水から

塩を作る過程と同じなのです。



古事記では

国を作るときの

『塩こおろこおろに画(か)き鳴(な)して』

という呪文のようなものが

記されています。


次に

『引き上げたまふ時に、

其の矛の末さきより垂落したたる塩、

累積つもりて島と成る。

是れ淤能碁呂(おのごろ)島なり』

とあります。


つまり、

海に囲まれた国土は

まるで海の塩からできている

という表現なのです。


*蘇我氏や平群氏、

塩屋連など

葛城所縁の豪族は

百済から送られた

馬の飼育や馬具の生産に携わってきました。
馬飼では

塩は重要な餌の一部であり、

平群氏などは

馬飼だけでなく、

塩の生産にも携わっていたようです。

*画像の石棺の蓋が

屋根の形なのは

蝦夷や入鹿の邸宅の屋根であり、

竈門神や土公神は

家宅の神なので屋根の形なんです。






文、蛯原春比古さまに

帰属します

マネはできません