黄泉の菊理媛と九九 とは | 開運行動すれば【その先、ヒカリ♥】

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黄泉の国、記紀を正しく知る事は、日本人として非常に大事です。
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暦会館さんより
三鏡宝珠に、神様名があったとは!!🌞✨

蛯原さまの考察
シェアさせて頂きました

ありがとうございます


『黄泉の菊理媛と九九』 
〜暗算と条坊と酒甕

4世紀に編まれた
不老長生を説く道教には、
菊が群生している谷を下ってきた
水を飲んだ村人たちが
長寿になったという
「菊水伝説」が書き留められています。

奇数を尊重する中国では、
最大の奇数である九が重なる
 重陽節では、
菊の薬効が
重要な役割を果たしていたのです。

そのような重陽節における
菊の呪術やユートピア伝説である
「菊水伝説」が

日本の貴族社会でも受け 継がれ、
季節の行事の中に定着していったのです。

奈良時代から平安時代にかけて、
中国から伝えられた菊は、
長寿を象徴する代表的な植物です。

それは、
中国の黄河源流に有る
菊の群生地から流れ出た水を飲んだ
里人が延命を得たという
「菊水」の伝説や、
菊の露が滴(したた)った渓流の
水を飲んで長命を得たという
能楽の『菊慈童(きくじどう)』の伝説
などによるものです。


〜国立歴史民俗博物館
くらしの植物苑だより参考



中国では「菊」は、
「仙花」と呼ばれ「抗老」の力がある
と信じられてきました。

中国の古い故事『菊水伝説』では、
麗(れき)県地方の上流には、
菊の花がたくさん咲き、
菊の花のしずくが落ちる
谷川の水を飲むその地方の住民には、
百歳を超える長寿者が多い。

また、その水を飲んで
長患いを治して『百歳』まで生きた
武官がいたことから
都でも菊の種をまくようになった、
と記されています。

『菊水伝説』は
平安の貴族たちが
こよなく愛読した書物です。

『紫式部日記』では、
菊の香りをうつした綿が届けられ、
それで体を拭くと若返る
と添えられていた
と書かれています。

中国では、
九月九日の重陽の日に
菊酒を飲むと長寿が保たれる
という風習があり、
それが日本にも伝来して、
この日には
宮廷で「菊花の宴」が催されました。

お酒の名前に
「菊」の文字がつくものが多いのも、
このいわれに則ったものだと思われます

〜参考 表参道染一会
第4回「菊」文様



【奈良時代に伝わる九九】

万葉集には、
九九を洒落て表現している歌が 
いくつかあります。

たとえば、

「十六」と書いて「しし」、
「八十一」と書いて「くく」、
「ニニ」と書いて「し」

と読ませるのです。

【九九の木簡は早見表】
かけ算の「九九」の式35個を記した
奈良時代の木簡が、
京都府京丹後市の
靍尾遺跡(8世紀)から出土した。

九九木簡は
全国で約80例見つかっているが、
一つの木簡に書かれた式は
15個以下で、今回が最多という。

当時の役所で早見表として
使われていたとみられる。

木簡は長さ22センチ、
幅5センチ、厚さ0・6センチ。

九九は中国から伝来したとされ、
当時は9の段から唱え、
重複する式は省略するのが通例で、
計45個しかなかった。

木簡の表面には
9と8の段の17個、
裏面には7、6、5の段の18個を
「九九八十一」などと
墨書している。

付近から文字の練習をしたとみられる
「習書木簡」なども出土し、
遺跡は地方の役所
「 官衙」だった可能性が高いことが
わかった。

渡辺晃宏・奈良大教授(日本古代史)は
「字が丁寧で計算間違いもなく、
役人が徴税管理などの計算に
手控えとして使ったと思われる。
九九木簡が実用的な早見表として
地方に広がっていたことを示す
貴重な史料だ」
と話している。


〜読売新聞オンラインより



古代では
九九の数え方は
九九八十一が一番最初だったんですよ。

「八」「十」「一」を組み合せた
「半」の字をあてたもの
といわれています。

また、マス目が
「九×九=八十一」であることから
「盤寿ばんじゅ」
ともいわれます。

【万葉集】
玉社者 緒之絶薄 
八十一里喚鶏 
又物逢登曰 
又毛不相物者 
麗尓志有来

玉こそば 緒の絶えぬれば 
くくりつつ またも合ふといへ 
またも逢はぬものは 
妻にしありけり

玉の場合は紐が切れても
結び合わせられるというのに
妻には二度と逢えないのだなあ
〜万葉集巻十三挽歌3330


【括る(くくる)】
自由を束縛する。
強制して物事をさせる。



【日本書紀の異伝が伝える菊理媛】

及其与妹相闘於泉平坂也、
伊奘諾尊曰、始為族悲、
及思哀者、是吾之怯矣。

時泉守道者白云、有言矣。
曰、吾与汝已生国矣。
奈何更求生乎。
吾則当留此国、不可共去。

是時、菊理媛神亦有白事。
伊奘諾尊聞而善之。
乃散去矣。

【訳】
伊弉冉と伊弉諾の二人の
神様の夫婦がいました。

この夫婦は大変仲が良く、
伊弉冉は多くの神様を産みました。

しかし、ある日火の神を
産んだことから伊弉冉は
黄泉の国へ旅立ってしまいます。

一人になった伊弉諾は
寂しさのあまり、
伊弉冉に会いに
黄泉の国を訪れます。
伊弉諾は黄泉の国の扉越しに、
伊弉冉に
「どうか戻ってきて欲しい」
と懇願します。

伊弉冉は
「それでは何とか戻れないか、
相談してみましょう。
私が良いというまで覗かないでください」
と伝え、
黄泉の扉を閉めてしまいます。

しかし、伊弉諾は伊弉冉との
約束を破り、
黄泉の扉を開けてしまいます。
その扉の向こうには
変わり果てた姿の伊弉冉が。

驚いた伊弉諾は、
恐怖のあまり
その場から逃げ出します。
変わり果てた姿を
見られたくなかった伊弉冉は、
約束を破った伊弉諾を
追いかけます。
伊弉諾は命からがら逃げますが、
途中の黄泉平坂で
追いつかれてしまいます。

黄泉平坂で激しく口論をする
伊弉冉と伊弉諾。
そこへ泉守道者
(よもつちもりびと、黄泉の井戸の番人)
が現れ、

「伊弉冉が現世に戻ることはできない」

と伊弉諾に伝え、
口論している二人を取りなします。

その最中、
そこへ今度は菊理姫が
やってきて、
伊弉諾に何かを伝えます。

伊弉諾は菊理姫の言葉を聞くと、
急に機嫌が良くなり、
泉守道者と菊理姫の二人を
たいそう褒め称えて
帰っていきました。

*菊と聞くをかけたお話だったようですね。

『斎瓮 (いわいへ)と呼ばれる甕を
地に掘り据え神に祈る歌』
〜万葉集巻13

大船の 思ひ頼みて 
さな葛 いや遠長く 
我が思へる 
君によりては 
事の故も 
なくありこそと 
木綿だすき 
肩に取り掛け 
斎瓮(いわいへ)を 
斎(いわ)ひ掘りすゑ 
天地の 
神にそ我(あ)が乞(こ)ふ 
いたもすべなみ

【訳】
頼りにするべき人が
長く続いてほしいと
私は望む あなたの身に
よくないことが
起きないように

木綿のたすきを
肩に取りかけ
酒の甕を
身を慎んで地を掘り据え
天地の神に私は願う
そうするしかないのです

ひさかたの 
天の原より 
生(あ)れ来たる 
神の命(みこと) 
奥山の 
賢木(さかき)の枝(えだ)に 
白香(しらか)付け 
木綿取り付けて 斎瓮(いはひへ)を 
斎ひ掘り据(す)ゑ 
竹玉(たかたま)を 
繁(しじ)に貫(ぬ)き垂(た)れ 
鹿(しし)じもの 膝(膝)折り伏して
たわや女(め)の 
襲(おすひ)取り懸け かくだにも 
我れは祈(こ)ひなむ 君に逢はじかも

【訳】
高天原に(天上世界)
生まれた神よ
奥山の賢木の枝に
白香(しらか)を付け
木綿(ゆう)を取り付けて
斎瓮(いわいべ)をいみ清めて
堀り据え
竹玉を緒(お)に
いっぱい貫き垂らし
鹿のように膝を折り曲げて
神の前にひれ伏し
たおやめである私が
襲(おすい)を肩に掛け
こんなにまでして
私は懸命にお祈りをしましょう
それなのに
我が君に
お逢いできないものなのでしょうか

(伊藤 博 著 「万葉集 一」 
角川ソフィア文庫 参考)


*菊とは長寿の水であり、
お酒を意味します。
古来中国では、
奇数は縁起が良い「陽数」、
偶数は縁起の悪い「陰数」
と考えられ、
陽数の最大値である「9」が
重なる9月9日を「重陽」と呼び、
節句の1つとしました。

9と9は九と九、
つまり
九九、くくり、『括り』となります。

菊理媛が何故?
白山比咩なのか、
もうおわかりですね。

『白は百に一足りない九九』

だからなんです。

黄泉比良坂に
扉(久那土、久那戸)があり、
そこには菊理媛(お酒)もあるんですね。

これは坂に埋める甕(酒)の呪術であり、
土公神(不慮の死を遂げた人、祖霊)を
鎮める意味があります。

また、『理』とは(王(玉)+里)。
「3つの玉を縦ひもで貫いた」象形
「玉」の意味と
「区画された耕地の象形と
土地の神を祭る為に
柱状に固めた土の象形」
ですから、
土公を祀る坂(黄泉比良坂)の象徴でもある
のです。

万葉集第13挽歌3330にあるように
を結ぶ紐はあっても、
亡くなった妻を結ぶことはできず
(括ることはできない)、
伊弉諾と伊奘冉は
黄泉比良坂で別れる事になるのです。

天空の伊弉諾は
黄泉比良坂を去って
アワギハラで
穢れを流すために禊ぎをしますね。

本来は
伊弉諾は天空神ですから、
キトラ古墳などの天文図になり、
東から日や月や星が昇るのは
海からですので、
土中を西から東に移動した穢れを
海の水で落とす事を
禊ぎとしたのです。

儒教の教典「周礼(しゅらい)」に、

「王城は一辺9里の正方形で、
側面にはそれぞれ3つの門を開く。
城内には、
南北と東西に9条ずつの街路を交差させ、
幅は車の轍(わだち、8尺)の9倍とする。
中央に天子の宮、 
その東に祖先の霊を祀る宗廟、
『西に土地の神を祀る社稷(しゃしょく)』
を置く。
前方、南には朝廷、
後方、北には市場を置く。」

とあります。

中国では、この周礼の記述を基に
王城ができ、
東西南北を直線の道路で結ぶのが
都市機能だという考え方は、
日本にも
「周礼」とともに
「条坊制」として伝わってきました。

重陽の節句の九月九日は『秋土用』、
土公神は井戸にいますから、
『泉守道者』という
井戸(黄泉)の番人も出てくるんですね。



【藤原宮の御井(みゐ)の歌】
やすみしし わご大王
高照らす 日の御子

荒栲の 藤井が原に 
大御門 始め給ひて 
埴安の 堤の上に 
あり立たし 見し給へば 

大和の 青香具山(天香具山)は 
日の経(たて)の大御門に 
春山と 繁(しみ)さび立てり 

畝火の この瑞(みづ)山は 
日の緯(よこ)の 大御門に 
瑞山と 山さびいます 

耳成(みみなし)の 
青菅山(あおすがやま)は 
背面(そとも)の 大御門に 
宜(よろ)しなへ 神さび立てり 
名くはし 

吉野の山は 影面(かげとも)の  
大御門ゆ 雲居にそ 
遠くありける 高知るや 

天の御蔭
天知るや 日の御蔭の 
水こそば 常にあらめ 
御井の清水

*藤原京の縦と横の条里制の区割り、
御門という四神の配置を
山々に見立てています。



『九個の水晶と九枚の富本銭』
〜地を鎮める呪術と九九

日本初の本格的都城・
藤原京(694〜710年、奈良県橿原市)の
藤原宮跡で、
富本銭(ふほんせん)9枚と
水晶9本を納めた須恵器
見つかっています。

中国の陰陽思想で
「9」はめでたい数字とされており、
29日発表した
奈良文化財研究所によると、
宮殿造営の際に
都の平安や政権の安定を願って埋めた
地鎮具とみられます。

宮殿跡で確認されたものとしては
最古のものです。

「藤原の宮地(みやどころ)を
鎮め祭らしむ」
と伝えた、
692年の日本書紀の記述を裏付ける
画期的な史料で、
律令国家が行った
地鎮祭の実態を知るうえで
貴重な手がかりとなっています。

今年4月から、
宮の中心に位置する
大極殿院南門跡の
周辺1560平方メートルを調査。
南門の西に取り付く回廊の下で、
酒などを入れたとされる
須恵器・平瓶
(ひらか=直径約20センチ、
高さ約14センチ)が
見つかり、
注ぎ口の欠けた部分からは
銅銭がのぞいていた。

X線を当てて調べると、
液体と水晶の結晶9本が入っており、
注ぎ口の銭は、
日本最古の貨幣の富本銭9枚と分かった。 

富本銭は成分分析の結果、
近くの飛鳥池遺跡(同県明日香村)で
鋳造された可能性が高い。

平瓶は、
整地土に開けられた
約60センチ四方の穴に
砂を敷き詰めて安置し、
丁寧に埋められていた。
四隅には直径約25センチの穴があり
、聖域を示す結界を設けて
祭祀(さいし)をした可能性もある。

同研究所の
松村恵司考古第1研究室長は

「9は『久』にも通じることから、
土地の神様に
お金や宝物をささげることで、
都の平安・長久を願ったのではないか」
と話している。

地鎮の跡は、
太宰府政庁(福岡県太宰府市)の中門や
平城京(奈良県大和郡山市)の宅地ねどでも
確認されている。
【林由紀子】

森郁夫・帝塚山大学教授(歴史考古学)の話
日本書紀には
地鎮の方法や場所が書かれておらず、
その具体像をほうふつとさせる
非常に貴重な発見だ。
さらに、実際に藤原宮内で
遺構を確認できた事が重要で、
今後の研究に大きな影響を与えるだろう。

〜平城宮跡の散歩道より



水晶の結晶は六角形で、
六角形は土気を表しています。

結晶を平瓶に入れ、
おそらく埋納した時は、
お酒が入っていたのでしょう。

九個の水晶と九枚の富本銭、
九九、括り、菊理媛

ですね。

水晶の六角形は
井戸(黄泉、水と井戸の形)であり、
富本銭は
天円地方(丸と四角い穴)の世界観を
表していますから、

冥界(地下)と
天上界の中間(天下、あめのした)を
治める都のしるし、
或いは
建物の地鎮祭として
埋納されたのでしょう。

これらの事から

伊弉諾が
黄泉から帰る時に
菊理姫が現れるのは、

地下で荒神となった
伊奘冉の霊を鎮める
酒甕の女神であること、

天の方位を表す
九枚の富本銭や水晶は、

河図の魔法陣より生まれた
九星術(九曜)による
地鎮祭を意味する

と考えられるのです。



文、蛯原春比古さまに
帰属します
マネは一切できません



ありがとうございます