出雲は、「黄泉の国」① | 最強運貯めガイドブック♥古事記、黄泉の国を知る事が大事だよ♥カミコトは記紀の歴史の真実を知る事

最強運貯めガイドブック♥古事記、黄泉の国を知る事が大事だよ♥カミコトは記紀の歴史の真実を知る事

黄泉の国を知ることは、あなたを早く変容させます!
記紀を正しく知る事は、日本人として非常に大事です。
拝読感謝❤
漢方養生指導士で
ご縁玉と寅の日お財布さまおまじない感謝祭の提唱者です!
伊勢神宮と高野山の会員です。
主人のご先祖様は、羽黒山山伏です。



蛯原さまの考察のお話です
シェアさせていただきました
 



ありがとうございます


『出雲と古代』その一 前編
〜八雲たつ出雲

イヅモという地名は、
「八雲立つ出雲」といわれるように、
美しく雲がわき出る姿から
名付けられたというのが一般的である。

『古事記』のスサノヲの歌

「八雲立つ出雲八重垣つまごみに
八重垣つくるその八重垣を」

も、スサノヲと櫛名田比売の新婚生活を
雲がやさしく包んでことほぐという、
いかにも雲の国イヅモらしい歌である。

「出雲」という文字の初見は
持統天皇6年(692年)造像の
鰐淵寺銅造聖観音立像の台座銘で、
それ以前から
イヅモに出雲の文字を
あてていたのかどうか
史料的にはまったく不明である。

イヅモとは雲にかかわりがあるのか、
それとも単なる音の借字なのか。
このような疑問から、
イヅモを雲以外の要素で
解釈しようとする試みが古くからあった。
その代表的な解釈を列挙してみよう。

(1)夕つ方説
東方は朝日の上る朝つ方、
西方は夕日の沈む夕つ方。
朝つ方がアヅマとなり
夕つ方がイヅモとなった。

(2)五面(いつも)説
面とは国土の一地域をあらわす。
国引きによって造成された
杵築、狭田、闇見、三穂の四国
すなわち四面と、
もともと存在した原出雲国を
あわせると五面となる。

(3)アイヌ語説
島根半島の日本海側は
リアス式の複雑な海岸であることから、
アイヌ語のetu(岬)とmoi(湾)が
あわさったetu-moi(エツモイ)、
あるいはetuとmui(曲がった場所)が
あわさったetu-mui(エツムイ)から
イヅモとなった。

(4)外国地名説
朝鮮半島東部の江原道にあった
邪頭味(ヤタメ又はヤトメ)の住民が渡来し、
故地の地名を渡来地に付けたが、
それがイヅモ、エツモとなった。

(5)厳藻(いつも)説
出雲では古代から信仰の上で
藻を神聖視するならわしがあった。
また『日本書記』崇神60年の条に
豪族出雲振根と飯入根の兄弟が
斐伊川の止屋淵(塩冶淵)で
川藻を鑑賞したことがみえるから、
斐伊川には
美しい藻が生えていたことがわかる。
このように、
神聖で美しい藻の生えている土地
ということで
厳藻とよばれた。

注目すべきは、出雲振根兄弟が
藻を鑑賞した止屋淵と斐伊川をはさんで
向かいあった地が
古代の出雲郡出雲郷であって、
イヅモの地名の発祥地と
考えられることである。

従って厳藻説は
上記(1)~(5)までの中で
最も説得力がある。

しかし、美しい雲のわき出る土地、
出雲という従来の考えを
押さえることができるかどうか。

〜参考 しまね観光ナビ 
出雲の語源より

【雲気文(雲の文様)】
中国で、戦国・漢時代にみられる文様で、
空中に充満する気を表しています。
古代中国では
雲気文は雲だとみなされてきましたが、
初期のものは
中央アジアの
ヘラ鹿等の角の形状に似ています。
古代では
鹿の角はしばしば
豊饒や再生のシンボルと
みなされていました。
中国では雲気文として、
前漢時代の馬王堆1号墓の
絹織物の刺繍(死者の身体を包んでいた)が
出土しているように、
埋葬品リストには
「乗雲綉」と記されいて、
乗雲とは
仙人になる事で(綉は刺繍)、
復活再生観念と
結びつけられていたようです。
つまり
死者があの世に生まれ変わる
(仙人になる)ことを助けるのが
雲気文だった想像できるのです。

以前より出雲は
大和の西にある、
幽冥(黄泉)の地であり、
土地神(祖霊、大国主)を祀る場所である
と推測してきました。

そういう意味では、
大和の中で葛城は、
まさに出雲となるのですが、
では、何故?『出雲』という
名前になったのか、
出雲とは
何なのか調べていきましょう。

〜参考 
中国古代の文様雲気文などがもつ
復活再生観念の研究




『出雲と古代』そのニ  
〜洞庭湖の龍

中国第二の淡水湖で、
湖南省北部、長江(ちょうこう)の
南岸にある洞庭湖には
洞庭君という龍神が住んでいました。

洞庭君は
鬼のような真っ赤な顔に
牙を生やしており、
その顔を人に見られるのを
恥じていました。
そこで、船に乗った人々が何か話したり、
何かを指差したりしていると、
自分のことを噂されていると考え、
腹を立てて、
風雨を起こし
船を沈めようとしたそうです。

明の時代に
洞庭湖を
船で通りかかった
陳明允(ちんめいいん)
という男が
不思議な体験をしたという話が、
清代の短編小説集
『聊斎志異(りょうさいしい)』
にあります。

船で洞庭湖を渡っている時、
偶然、陳は
矢傷を受けていた猪婆龍(ちょばりゅう)
(一種の鰐、揚子江ワニとも言われている)
を救ったのですが、
それが洞庭君の妻だったのです。
おかげで、陳は
猪婆龍の勧めもあり、
洞庭君と猪婆龍の美しい娘と結婚し、
幸福な生涯を送ったというのです。

更に昔の言い伝えでは、
洞庭君は
柳毅(りゅうき)という人間の
男性が変じたものだ
ともいわれてきました。

唐代の伝奇小説『柳毅伝』によると、
唐の時代には
「科挙」という官吏登用制度があり、
この試験は大変難しく、
現在名を残している文人達も何回も、
この試験に落ちているといわれています。
有名な杜甫でさえ、
この試験に落ちていて、
大変難しい試験だったのです。

柳毅は
科挙の試験に失敗して、
故郷の呉(ご)に帰る途中で
涇川(けいせん)
(安徽省・あんきしょう、涇県)
に至った時、
道ばたに貧しい身なりをした
美しい娘がいて泣いているのを
見つけました。

「娘さん、どうして泣いているのですか」

娘はその理由を切々と語りはじめ、

「私はもともと洞庭湖の龍王の娘です、
涇川の水神の次男に嫁ぎましたが、
夫が道楽者で大変な苦労をしています、
もう耐えきれません、
どうか、この手紙を
洞庭湖の父の龍王に
届けてもらえないでしょうか」

柳毅は半信半疑でいましたが、
ちょうど自分のふるさとは
洞庭湖の近く、
自分も失意の中におり、
娘も美しい、
ここは一つ、
この娘の願いを聞いてやろうと
思ったのです。

さて柳毅が洞庭湖のほとりにつき、
娘が言うとおりに
龍宮への井戸を見つけ、
そこから龍宮へ入っていったのです。
龍宮の中はあまりにも立派で、
人間界に比べるものがないほど
美しい所でした。
柳毅は早速、
龍王に手紙を渡したところ、
龍王や龍宮の民は悲しみに暮れ、
洞庭君の弟に当たる銭塘君は 
怒りにまかせ、
涇川に出向き、
涇川の龍を食い殺して
娘を取り返してきたのです。
こうして柳毅は
龍宮で大いに歓迎され、
帰りには宝物を贈られました。

故郷に戻った柳毅は
その宝物を元手に商売を初め、
大金持ちになったのですが、
何故か、結婚した二人の妻は
どちらも子供を生まずに
すぐに死んでしまったのです。
そうして柳毅は
三度目の妻を娶とりました。
その妻は
どこか洞庭君の娘に似ていて、
ある日、柳毅は
妻に昔あったことを話して
聞かせたのです。
そのうち子供が生まれて
一ヶ月ほどしたとき、妻が

「実は自分は洞庭君の娘です」

と打ち明けたのです。

その後、柳毅は40年間
妻とともに人間界で暮らしたあと
洞庭湖へ行き、
洞庭君の跡を継いで
湖の龍神になったのです。

*漢代から、洞庭湖北部を
『雲夢大沢(うんぼうだいたく)』
と呼んでおり、
現在の湖北省にあたる地域では、
その栄養豊かな堆積物が農業用に珍重され、
多くの田が造られてきました。

湖北省から湖南省にかけて存在したという
この大湿地は、
揚子江中流の武漢付近の湖沼群が
その跡といわれています。
比較的大きな湖は
洪湖、梁子湖、黄塘湖、張渡湖、
これらの湖は
古代の大湖である『雲夢沢』のなごりで、
現在では天然の遊水池として、
長江、漢水の増水を蓄えるのに
活用されています。

三峡を通り、平野部に流入する長江は、
勾配が急に減少するため、
泥砂の堆積が激しく、
河は大きく蛇行し、
夏から秋にかけての増水期には、
度々、氾濫を繰り返していたのです。

*洞庭湖の龍神伝説は
日本の浦嶋子の龍宮伝説の源流と
言われていて、
遅くとも奈良時代までには
伝わっていたとされています。
洞庭湖の龍宮に繋がっている
『柳毅井(井戸)は
現代でも残っています。

また、この話しは
17世紀に
清を通じて
琉球にも伝わったようですよ。

*更に古い話しもあります。
それは、『拾遺記』という
後秦時代(384年から417年)の
王嘉という人が撰した
「志怪小説(しかいしょうせつ)集」
(奇怪な話を集めたもの)に
収められています。

お話しは
若い漁師が女性を助け、
女性は実は龍女で、
漁師は彼女に案内されて
洞庭湖の湖底にある龍宮に行くのです。
後の展開は
浦島太郎伝説でほぼ同じで、
龍女から
「私に会いたくなったら、
これに向かって私の名前を呼びなさい。
でも決して開けてはいけない」
と渡された手箱を開けてしまい、
この漁師は死んでしまいます。

続く


『出雲と古代』その三  
〜雲と気

古代人たちは
空を流れる雲にも精霊がいると考え、
それは龍の形をしたもので、
「くも」の意味を表わすために、
雨かんむりをつけて
『雲』という字が出来ました。

本来は「云」が
雲が立ち上がる象形だったので
「くも」の意味の字だったのですが、
云は
雲から龍が尻尾をのぞかせている形で、
「旬」「九」も同じ龍の形になります。

「気」は雲が空に流れ、
その一方が垂れている形です。

つまり、雲気とは
雲の中に龍がいることを表すとともに、
龍の尾が垂れている形でもあるんです。

*八岐大蛇の尾からでた
『天叢雲剣(アメノムラクモ、草薙の剣)』
の名前の意味が
これでわかりますね。

『日本書紀』
神代紀上第八段本文の注には

「ある書がいうに、元の名は天叢雲剣。
大蛇の居る上に
常に雲気(くも)が掛かっていたため、
かく名づけたか。
日本武皇子に至りて、
名を改めて草薙劒と曰ふといふ」

とある。

古代中国には
四海や河、湖などを
守護するとともに
暴れ者として河を氾濫させるといわれる
龍王が存在し、
その龍を退治する英雄が
登場することもあります。
とはいえ、
多くの龍は
神の配下や吉兆を示す神聖なものであり、
さらには長寿、円満など
人々の願いを象徴した
信仰の対象だったのです。

龍は雲を起こし、
恵みの雨をもたらす神であり、
雨乞いの対象とされ、
海や河川の支配者として、
水や雨を自在に操り雨を呼び起こす。
さらには洪水の原因となると
考えられていたのです。

そのため龍を敬い、崇めるのです。

乾いた土に水をかけ
その泥で龍型をつくり、
その『土龍』に降雨を祈る、
また、土龍は地上の龍、
つまり馬、特に名馬の事であり、
降雨や止雨を神に祈願する
現代の絵馬の原型にもなっています。

日本では土馬と呼ばれる
奈良時代の土でできた馬が、
井戸や流路などの水辺での
出土数が多いことに
関係しているのかもしれません。

唐の玄宗皇帝は大干魃時に、
龍だけを描いている絵描きに
龍を描かせ
雨乞いをしたとも伝えられています。

また、龍は
長寿または不死と結びつき、
天高く飛翔することから、
天地を行き来することができ、
天上への乗り物と考えられていて、
春分に
地上から天に昇っていき、
秋分には
下りてきて川などの淵に入る
と考えられていたのです。

これは、農耕などの雨乞いだけでなく、
亡くなった人の魂が、
天上と地上を往来する
『祖霊信仰』を持っていた
古代日本人の信仰に溶け込み、
古代から現代まで続く
龍神信仰や日本人の『龍好き』にも
繋がっているのかもしれませんね。

続く




文、蛯原春比古さまに
帰属します