二宮尊徳翁や孔子を知ることの大事 | 最強運貯めガイドブック♥古事記、黄泉の国を知る事が大事だよ♥カミコトは記紀の歴史の真実を知る事

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SBIホールディングス
北尾吉孝さまのお話
シェアさせていただきました
ありがとうございます


『心田を耕す
~善の種を収穫して蒔き広める~』

(2023年4月4日 16:25)

株式会社財界研究所より
『心田を耕す』という本を上梓しました。

本書は
「北尾吉孝日記」を再構成したもので、
08年9月出版の第1巻
『時局を洞察する』から数えて
15巻目に当たります。

本書のタイトルを色々と考えた末、
『心田を耕す』としました。

その理由の一つは、
本書を構成する多くのブログの主張は
畢竟(ひっきょう)、
心田を耕すということに帰着する
と思ったからです。

もう一つの理由は
二宮尊徳(金次郎)について、
もっと多くの人に知ってもらいたい
と思ったからです。


この「心田を耕す」は、
お釈迦様の言葉に
端を発しているようです。

お釈迦様が
托鉢(たくはつ)をしている時に、
お百姓さんから

「私は田畑を耕し、
種を蒔いて食を得ている。
あなたも人に施しを乞うのではなく、
自分で田畑を耕し、
種を蒔いて食を得たらどうですか」

と言われ、

「我は忍辱(にんにく)という牛と、
精進という鋤(すき)をもって、
一切の人々の、心の田畑を耕し、
真実の幸福になる種を蒔いている」

と答えられたと
伝えられています。


私は、この言葉は長年、
二宮尊徳翁のものだと思っていました。

彼の言で

「私の本願は、
人々の心の田の荒廃を
開拓していくことである。
天から授けられた善の種である
仁義礼智を栽培し、
善の種を収穫して、
各地に蒔き返して、
日本全体に
その善の種を蒔き広めることである」

というものがあったからです。

上記は、当に
尊徳翁の報徳思想の根幹を
為すものだと
私は考えています。

尊徳翁の思想は

神道・儒教・仏教のエッセンスを
取り出し、
翁の体験的・実践的知恵と
結合・折衷させて
生み出したものです。

尊徳翁は、
この思想の四つの実践倫理
(至誠、勤労、分度、推譲)を貫き、
武家や藩家の財政を立て直したり、
村の農業を復興させ、
最終的には
約六百の村おこしを行った
と言われています。

これら四つの実践倫理の内、

「分度」とは
分に従って度を立てることで、
自分の置かれた状況や立場を
弁(わきま)え、
それぞれに相応しい生活をすること。
また、
収入に応じた
一定の基準(分度)を決めて、
その範囲内で生活をすること。

「推譲」とは
将来に向けて、
生活の中で余ったお金を
家族や子孫のために
貯めておくこと(自譲)。
また
他人や社会のために譲ること(他譲)
を言います。


私が
SBIグループの地銀プロジェクトを
立ち上げる時に、

尊徳翁の関連書籍を何冊か読み、

彼の報徳思想を
地方創生という観点で
勉強仕直しました。

その過程で
「推譲」の考え方、
とりわけ「五常講」の仕組みは
素晴らしいと思いました。

「五常」は
中国古典の仁・義・礼・智・信です。

報徳思想の「五常」の内、

「仁」とは
お金のある人が無い人に
低利・無担保で貸す愛。

「義」とは、
借りた人は期日までに約束を守り、
きっちり返すこと。

「礼」とは、
困った時に
お金を貸してくれた人への
感謝の気持ち。

「智」とは、
借りた人は、
どうやって返済するかを考え抜き、
一所懸命に働くこと。

「信」とは、
金銭の貸し借りを行う
土台としての人と人との関係、

を言います。


尊徳翁は、
村の復興や藩の財政再建の為、
田を耕し、
お金の貸し借りを
五常の精神で行うことで、
村民達の心を耕していったのです。

これを尊徳翁は
「心田開発」と呼んだのです。


私は、
報徳思想は
バングラデシュの経営学者であり、
ノーベル平和賞を受賞した
グラミン銀行の創設者である
ムハマド・ユヌス氏の
マイクロファイナンスや
ソーシャルビジネスの事業に
相通じるものだと思いました。


私が長々と前記した
尊徳翁やユヌス氏の話の共通点は、

「推譲」という
善智・善行の普及
と言えると思います。

この考え方を尊徳翁の場合は、
彼が研鑽していた
中国古典から
知行合一的に学んだ「五常」の徳目が
「五常講」に結実した
と推察されます。


これら五つの徳を
バランスよく身につけ
実践していくことが、

君子たる人物になるために
必要不可欠であると

『論語』では説かれています。


「仁」とは
思いやりの気持ち、
「義」とは
人が行動していくうえで
通さなくてはならない物事の筋道のこと。
「礼」とは
集団で生活を行うために、
お互いに守るべき秩序のこと。
「智」とは、
よりよい生活をするために
出すべき智慧。
そして
「信」とは
我々の社会を成り立たせている基盤や、
そこで生活している人に対しての
絶対的信頼です。


こうした五常を
バランス良く、
知行合一的に身に付ける
という行為を、
田を耕している農民達を
啓蒙する場合
「心田を耕す」という言葉が
一番分かりやすく、
受け入れやすいと
尊徳翁は思ったのではないでしょうか。

尊徳翁の偉大さは、

自ら学んだことを実践し、
より良き社会の実現のため
ビッグピクチャーを具体的に描き、
大変な成果を齎した点にあります。

また
尊徳翁は、
経世済民を目指した報徳思想を
広く受け入れられるものとし、
その啓蒙活動を通じ
大きな社会変革を齎したことも、
我々は忘れてはならない
と思います。

私の小学校時代には、
多くの学校に
二宮金次郎の銅像がありましたが、

そうした像が次第になくなり、

小学校でも
二宮金次郎について
教えることもなくなっているようで
残念至極です。


本書のタイトルを
「心田を耕す」とすることで

二宮尊徳翁の足跡や思想を
尋ねる人が増えることを
切望いたします。


 

 



『人間力を高める』


(2023年4月13日 15:25)




『論語』から学ぶべき

人間力向上のためのエッセンスは

何かと問われれば、


私は


「君子の必修徳目である五常」

「最上の徳としての中庸」

「義利の辨(べん)」


の三つだと思います。


第一に

「君子の必修徳目である五常」。


孔子を始祖とする儒学では、

人間力を高めるために

「五常…仁義礼智信」を

バランス良く磨くべしとして、

「修己治人…己を修めて人を治む」を

実現すべく、

此の五点夫々に

レベルが高いことを以て

徳が高い人物だ


とされています。


「仁」とは、

集団社会にあって

最も基本となる徳目です。

 

「仁は徳の光なり

…仁は徳のなかの最も立派なものである」

(『韓非子』)、

「仁とは人なり

…仁の徳をもっていればこそ、

人間である」

(『中庸』)

と言われますが、


  孔子にとっても

仁は

「君子」と並ぶ大変重要な、

言わばキーコンセプトであります。


孔子曰く、

「君子、仁を去りて

悪(いず)くにか名を成さん。

君子は食を終うるの間も

仁に違(たが)うこと無し。

造次(ぞうじ)にも

必ず是(ここ)に於いてし、

顚沛(てんぱい)にも

必ず是に於いてす」

(里仁第四の五)


ということで、


「君子は、仁を行う以外のことで

名声を得ようとは思わない。 

君子はいつまでも仁と共にあり、

たとえ僅かな時間でも、

つまずき倒れるような時も

そうでなくてはならない」


のです。



次に「義」とは、

人間の行動に対する筋道です。


可否判断の基準であり、

集団生活に欠かせぬ

規範・規則を言います。


「礼」は

二側面を有し、

エチケット&マナー(礼儀作法)

及び

秩序の維持を意味します。

我々が生きるヘテロジニアスな世界を

円滑に機能させてくれるもので、

礼は仁の実践に不可欠です。


「智」とは、

人間がよりよく生きるための

智慧であります。

理想実現に向けた未来への創造こそ、

智の徳に依るものです。


『論語』も

二千数百年の歴史の篩に掛けられ、

世界中で今なお読まれている書物であって、

智を磨くには最適だと思います。


時空を超え精神の糧となる

古典を中心した良書を

深く読み込んで、


私淑する人を得 

その人を出来る限り吸収して行き、

得た学びを

知行合一的に

日々生活の中で

錬磨し実践して行くのです。


そして

「信」とは、

集団生活において

常に変わることのない

不変の原則です。


之は他者との関係も含んでいて、

自分に関わる上記

四常とは異なります。


孔子は

君子になるための絶対条件として

信を捉え、

信につき非常に重きを置いています。


それは例えば、


「人にして信なくんば、

其の可なることを知らざるなり」

(為政第二の二十二)


という言にもよく表れています。


つまり孔子は、

「人間関係、人間の社会は

信義に基づいて成り立っている。

信義なくしては

人間関係も社会も成立しない」

と言っているのです。


為政者に対する不信、

人間への不信、

友人への不信、

親子・兄弟・夫婦間の不信


――こうした不信に終始するならば、

人は此の世に

一刻も生きては行けなくなります。


「信なくんば立たず」

(顔淵第十二の七)です。



第二に

「最上の徳としての中庸」。


孔子は

「中庸の徳たるや、其れ至れるかな」

(雍也第六の二十九)


と言うぐらい


中庸を最高至上の徳として、

真善美・知情意・詩礼楽等

あらゆる面で

バランスの取れた人物を

君子として尊び、

自身も

此の最上の徳の境地に近付こうと

修養を積み重ねました。


中庸の徳は

極めて難しく、

中々若くして

身に付けられません。


また抽象的な概念であるだけに、

その考え方も

簡単には理解できません。


平たくは、

常時変わらぬ心(恒心)を持って

全てを受け入れながら、

一歩前に進んで行くのが

中庸である

とも言えましょう。


中庸とは、


「無難」や「折衷」

あるいは「間をとる」といった概念とは

似て非なるもので、


西洋哲学の

「正反合」の「合」に当たるものです。


より高次元での合に達すべく

此の正反合を進む中で、

次第に中庸(合)の域に

達してくるのではないかと思います。



孔子は、

中庸の精神を

様々な形の中で持ち続けることを

非常に大事にしていました。


智と礼のバランスで

一例を挙げますと、


『論語』の「雍也第六の二十七」に


「君子、博く文(ぶん)を学びて、

これを約するに礼を以てせば、

亦以て畔(そむ)かざるべきか」


とあります。


之は、


「君子は広く学んで

知識や教養を身につけて、

礼によってそれらを集約して

自分の行動を律していく。

そうすれば道を外すことはない」


といった意味になります。


集約するとは、

その時代の慣行・習慣に沿うよう

形作り実行する

ということです。



トップは、

恒心とバランス感覚を備えた

人物でなくてはなりません。


孔子の君子像としては、

一芸に秀でるだけでなく、

幅広くその能力を発揮し、

一定の型にはまらない人物

と言えましょう。


何か一つの特性に偏っていると、

臨機応変万事に対応できません。


また

トップが

偏った視点を持っていると、


部下の能力を

公明正大に評価できなくなります。

 

「君子は器(うつわ)ならず」

(為政第二の十二)で、


器を使うのが

君子なのです。


『論語』の「子罕第九の四」に、


「子、四(し)を絶つ。

意なく、必なく、固なく、我なし」

 

とあります。


孔子は

中庸の徳を養うべく、


「私意がない、無理を通すことがない、

物事に固執することがない、

我を通すことがない」


ことが大事だと考えて、


「意必固我」を

意識的に行わぬよう己を律し、


大変バランスのとれた人物に

出来上がりました。


「学んで」「思うて」

(為政第二の十五)

己の視野を広め思考を深め、

意必固我を遠ざけて排すことは、

義礼智仁に繋がる修養の

第一項目であります。




第三に

「義利の辨」。



南宋の思想家・

陸象山(りくしょうざん)は

白鹿洞書院での講義で

『論語』の一章、


「君子は義に喩(さと)り、

小人は利に喩る…

物事を判断する時、

君子は正しいかどうかで判断するが、

小人は損得勘定で判断する」

(里仁第四の十六)

を講じ

次のように述べました


――人の喩るところは

その習うところによる。

習うところは

その志すところによる。

義に志すか利に志すかによって、

ついに君子となり、

小人となるのである。



中国古典の書には、

義利の辨として

「義」と「利」ということが

沢山出てきます。


『論語』でも上記の他、


「利を見ては義を思い

…利益を前にしても大義を考え」

(憲問第十四の十三)


とか、


「利に放(よ)りて行えば、

怨み多し…利害ばかりで行動すれば、

必ずや多くの怨恨が生まれるだろう」

(里仁第四の十二)


といった具合に、


孔子は

此の二字につき何度も触れています。


孔子曰く、

「君子、義以て質と為し、

礼以てこれを行い、

孫(そん)以てこれを出だし、

信以てこれを成す。

君子なるかな」

(衛霊公第十五の十八)


ということで、


「君子は道義を本とし、

礼によって行い、

謙虚な態度で物を言い、

 終始偽りのない信を貫いて

事を成し遂げる。

こういう人物が

真の君子である」


のです。


以上『論語』のエッセンス三点、


「君子の必修徳目である五常」

「最上の徳としての中庸」

「義利の辨」


につき述べてきました。


君子を目指すべく

我々は四を絶ち、

人間力の源泉とも言い得る

五常を身に付けて行きながら

中庸を保ち、

義に志すことが

極めて大事なのです。