『人間力を高める』
(2023年4月13日 15:25)
『論語』から学ぶべき
人間力向上のためのエッセンスは
何かと問われれば、
私は
「君子の必修徳目である五常」
「最上の徳としての中庸」
「義利の辨(べん)」
の三つだと思います。
第一に
「君子の必修徳目である五常」。
孔子を始祖とする儒学では、
人間力を高めるために
「五常…仁義礼智信」を
バランス良く磨くべしとして、
「修己治人…己を修めて人を治む」を
実現すべく、
此の五点夫々に
レベルが高いことを以て
徳が高い人物だ
とされています。
「仁」とは、
集団社会にあって
最も基本となる徳目です。
「仁は徳の光なり
…仁は徳のなかの最も立派なものである」
(『韓非子』)、
「仁とは人なり
…仁の徳をもっていればこそ、
人間である」
(『中庸』)
と言われますが、
孔子にとっても
仁は
「君子」と並ぶ大変重要な、
言わばキーコンセプトであります。
孔子曰く、
「君子、仁を去りて
悪(いず)くにか名を成さん。
君子は食を終うるの間も
仁に違(たが)うこと無し。
造次(ぞうじ)にも
必ず是(ここ)に於いてし、
顚沛(てんぱい)にも
必ず是に於いてす」
(里仁第四の五)
ということで、
「君子は、仁を行う以外のことで
名声を得ようとは思わない。
君子はいつまでも仁と共にあり、
たとえ僅かな時間でも、
つまずき倒れるような時も
そうでなくてはならない」
のです。
次に「義」とは、
人間の行動に対する筋道です。
可否判断の基準であり、
集団生活に欠かせぬ
規範・規則を言います。
「礼」は
二側面を有し、
エチケット&マナー(礼儀作法)
及び
秩序の維持を意味します。
我々が生きるヘテロジニアスな世界を
円滑に機能させてくれるもので、
礼は仁の実践に不可欠です。
「智」とは、
人間がよりよく生きるための
智慧であります。
理想実現に向けた未来への創造こそ、
智の徳に依るものです。
『論語』も
二千数百年の歴史の篩に掛けられ、
世界中で今なお読まれている書物であって、
智を磨くには最適だと思います。
時空を超え精神の糧となる
古典を中心した良書を
深く読み込んで、
私淑する人を得
その人を出来る限り吸収して行き、
得た学びを
知行合一的に
日々生活の中で
錬磨し実践して行くのです。
そして
「信」とは、
集団生活において
常に変わることのない
不変の原則です。
之は他者との関係も含んでいて、
自分に関わる上記
四常とは異なります。
孔子は
君子になるための絶対条件として
信を捉え、
信につき非常に重きを置いています。
それは例えば、
「人にして信なくんば、
其の可なることを知らざるなり」
(為政第二の二十二)
という言にもよく表れています。
つまり孔子は、
「人間関係、人間の社会は
信義に基づいて成り立っている。
信義なくしては
人間関係も社会も成立しない」
と言っているのです。
為政者に対する不信、
人間への不信、
友人への不信、
親子・兄弟・夫婦間の不信
――こうした不信に終始するならば、
人は此の世に
一刻も生きては行けなくなります。
「信なくんば立たず」
(顔淵第十二の七)です。
第二に
「最上の徳としての中庸」。
孔子は
「中庸の徳たるや、其れ至れるかな」
(雍也第六の二十九)
と言うぐらい
中庸を最高至上の徳として、
真善美・知情意・詩礼楽等
あらゆる面で
バランスの取れた人物を
君子として尊び、
自身も
此の最上の徳の境地に近付こうと
修養を積み重ねました。
中庸の徳は
極めて難しく、
中々若くして
身に付けられません。
また抽象的な概念であるだけに、
その考え方も
簡単には理解できません。
平たくは、
常時変わらぬ心(恒心)を持って
全てを受け入れながら、
一歩前に進んで行くのが
中庸である
とも言えましょう。
中庸とは、
「無難」や「折衷」
あるいは「間をとる」といった概念とは
似て非なるもので、
西洋哲学の
「正反合」の「合」に当たるものです。
より高次元での合に達すべく
此の正反合を進む中で、
次第に中庸(合)の域に
達してくるのではないかと思います。
孔子は、
中庸の精神を
様々な形の中で持ち続けることを
非常に大事にしていました。
智と礼のバランスで
一例を挙げますと、
『論語』の「雍也第六の二十七」に
「君子、博く文(ぶん)を学びて、
これを約するに礼を以てせば、
亦以て畔(そむ)かざるべきか」
とあります。
之は、
「君子は広く学んで
知識や教養を身につけて、
礼によってそれらを集約して
自分の行動を律していく。
そうすれば道を外すことはない」
といった意味になります。
集約するとは、
その時代の慣行・習慣に沿うよう
形作り実行する
ということです。
トップは、
恒心とバランス感覚を備えた
人物でなくてはなりません。
孔子の君子像としては、
一芸に秀でるだけでなく、
幅広くその能力を発揮し、
一定の型にはまらない人物
と言えましょう。
何か一つの特性に偏っていると、
臨機応変万事に対応できません。
また
トップが
偏った視点を持っていると、
部下の能力を
公明正大に評価できなくなります。
「君子は器(うつわ)ならず」
(為政第二の十二)で、
器を使うのが
君子なのです。
『論語』の「子罕第九の四」に、
「子、四(し)を絶つ。
意なく、必なく、固なく、我なし」
とあります。
孔子は
中庸の徳を養うべく、
「私意がない、無理を通すことがない、
物事に固執することがない、
我を通すことがない」
ことが大事だと考えて、
「意必固我」を
意識的に行わぬよう己を律し、
大変バランスのとれた人物に
出来上がりました。
「学んで」「思うて」
(為政第二の十五)
己の視野を広め思考を深め、
意必固我を遠ざけて排すことは、
義礼智仁に繋がる修養の
第一項目であります。
第三に
「義利の辨」。
南宋の思想家・
陸象山(りくしょうざん)は
白鹿洞書院での講義で
『論語』の一章、
「君子は義に喩(さと)り、
小人は利に喩る…
物事を判断する時、
君子は正しいかどうかで判断するが、
小人は損得勘定で判断する」
(里仁第四の十六)
を講じ
次のように述べました
――人の喩るところは
その習うところによる。
習うところは
その志すところによる。
義に志すか利に志すかによって、
ついに君子となり、
小人となるのである。
中国古典の書には、
義利の辨として
「義」と「利」ということが
沢山出てきます。
『論語』でも上記の他、
「利を見ては義を思い
…利益を前にしても大義を考え」
(憲問第十四の十三)
とか、
「利に放(よ)りて行えば、
怨み多し…利害ばかりで行動すれば、
必ずや多くの怨恨が生まれるだろう」
(里仁第四の十二)
といった具合に、
孔子は
此の二字につき何度も触れています。
孔子曰く、
「君子、義以て質と為し、
礼以てこれを行い、
孫(そん)以てこれを出だし、
信以てこれを成す。
君子なるかな」
(衛霊公第十五の十八)
ということで、
「君子は道義を本とし、
礼によって行い、
謙虚な態度で物を言い、
終始偽りのない信を貫いて
事を成し遂げる。
こういう人物が
真の君子である」
のです。
以上『論語』のエッセンス三点、
「君子の必修徳目である五常」
「最上の徳としての中庸」
「義利の辨」
につき述べてきました。
君子を目指すべく
我々は四を絶ち、
人間力の源泉とも言い得る
五常を身に付けて行きながら
中庸を保ち、
義に志すことが
極めて大事なのです。