三合法を知れば、歴史がわかる 「六合」 | 開運行動すれば【その先、ヒカリ♥】

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土公神様を
研究されている、

蛯原さまから
シェアさせて頂きました
ありがとうございます

 


『三合理論』

〜方位を知れば歴史は解明できる



 三合は、

古代中国で生まれ、
600年代に朝鮮半島を経由し
我が国へ導入された

陰陽五行思想のなかの
方術のひとつである。


十二支の特定の3つの支が
合することにより、

1つの強い気に変化するというもので、


ここから三合という
名称が生まれたと考えられる。

 





 
「三合」は、
十二支の3つの支で構成され、

生まれる「生」、
活動の時期を過ごす「旺」、
死ぬ「墓」、という

「生旺墓」の順路をたどり、

 3支が手を結ぶ(合する)ことにより、

1つの強い旺気となる。



三合には、
十二支のほかに
五行や方位、十干、八卦もあてられる。

たとえば、

木気三合の場合、
五行の木は卯であり、

季節は春、方位は 東を表す。

しかしこれが
4つめの未
(季節は夏、方位は南方)、
さらに
4つめの亥
(季節は冬、方位 は北方)と

季節や方位も違うもの同士が
結び合うことにより、

3つの支すべてが
旺である木気に変化する

というものである。  

三合は、
萬物の盛衰、人の一生、
季節の循環をも

「生旺墓」で表現する。


火気三合の場合、

寅で生まれて(生)、

午で盛んな時期を過ごし(旺)、
戌で死んでゆく(墓)

という周期をたどる。 

墓は、 死であり
土に還ることを意味するが、
土に還ったものは、
再び生まれ循環していく。

ニコニコ終わりであり始まり、ですよね!

「土」は、

萬物の生成や、
人間が生活していく上で
必要な大地であるが、

四季の循環がなければ、
生成過程をたどれない。

三合思想のなかには、

季節が
順当に巡ることにより、
この世の中が
うまくいくという

考えが含まれている。





五行には、

木は火を生み、
火は土を生み、
土は金を生み、
金は水を生み、
水は木を生む 

という相生関係と、

木は土を剋し、
土は水を剋し、
水は火を剋し、
火は金を剋し、
金は木を剋す

とい う相剋関係があり、

いずれも循環をおこなう。


【参考文献】
陰陽五行思想における三合の考察
平安京にみる三合 曽我とも子




西暦602年(推古10年10月)、
百済の僧観勒
天文、遁甲、暦書を伝えたのが

最初『日本書紀』の記録で、

民間では
それ以前にも色々な種類のものが
伝来していた可能性があります。

天武天皇は
日本初の占星台(天文台)を建てたり、

和風(国風)諡号は

天渟中原瀛真人天皇
(あまのぬなはらおきのまひとの
すめらみこと)

と呼ばれ、

瀛は
道教における
東方三神山の一つ瀛州
(残る2つは蓬莱、方丈)のことです。

真人(しんじん)は
優れた道士をいい、
瀛とともに
道教的な言葉をもちいています。

また、
天皇が
得意だった天文遁甲は、
道教的な技能であり、

葬られた八角墳は、

東西南北に
北東・北西・南東・南西を加えた
八紘を指すもので、

これも道教的な方角観になります。

これら道教的な考えは、
やがて

朝廷の陰陽寮の設置とともに
陰陽師を誕生させ、

国の根幹の儀式や祭祀に
深く取り入れられ、

古い習俗や仏教の保護などから
神仏混淆を生み出す

ことになります。



神話の「葦原の中国」とは、

日本の国土を表すものであり、

道教的には瀛州であり、

陰陽五行の思想では
三合と三合が結びついた

『六合 クニ』
他ならないのです。



*六合
上下四方の六つ方角、
世界、国を意味する。


文、蛯原春比古さまに
帰属します


ありがとうございます




六合村に
このようなことが書かれています


古事記上巻序文に

「乾符を握って六合を総べ」

日本書紀の
神武天皇即位のくだりに

「六合を兼ねて以って都を開き」

とあり、

「六合」とは

天地と東西南北、
すなわち支配の及ぶ範囲
「国」を表すことから、

「六合」を「くに」と読んでいる。



ことばマガジンより



1900年に、当時の草津村から

小雨(こさめ)、生須(なます)、

太子(おおし)、日影(ひかげ)、

赤岩(あかいわ)、入山(いりやま)

地域で分村する際、

六つの集落が合わさるということで

「六合(くに)」と名付けた。

古代の世界観では、

東西南北の四方と天地の六つで

国を表すことからの命名だという。

 1973年に旧六合村が発行した「六合村誌」には――「六合という名前は、六つの村を合わせたという意味であるが、これをクニと読ませたのは、『古事記』の序文に、天武天皇即位の項で『乾符ヲ握リテ六合(くに)ヲ摠ベ』とか、『日本書紀』巻三神武天皇紀の『蓋し六合(くに)の中心か』によるものであろう」と書かれている。

 また中之条町の六合地区観光情報のサイトを見ると「『六合』を『くに』と読む理由」の項に次のようにある。――「古代東洋では、世界は東西南北及び天地の六面で構成されたさいころの内側のようなものだと考えられていました。

六つの面が合わさっているので、

世界のことを『六合(りくごう)』とも

呼びました。

同じく世界を意味する

『天下』『四海』『八紘』と同様、

『六合』もしばしば

『国』の意味をもって使われ――(略)――

『六合』は『支配の範囲=国』の意味で

使われています。

このことから『六合』を『くに』と読み、『六合村』を『くにむら』と読んでいます」ということであった。





平戸市より
 




皆様には
ついて行けない話かも
しれません


弥勒ーミロクー369

この数字の表すところ

三合ー三合会局

六合ー世界、国

そして、九合   とは?
 
集めあわせる。
多くの人々を寄せ集めること。
「九」は「糾」に通じて、
糾合の意。
一説に九たび集める。

「桓公、九合諸侯=桓公、諸侯を九合す」
〔論語・憲問〕

通釈】
子路が、
「斉の桓公が
兄の公子糾(こうしきゅう)を殺して 
政権を握った際、
糾(きゅう)の側近であった
召忽(しょうこつ)は殉死しましたが、
同じく側近であった
管仲は殉死しないばかりか、
仇敵である桓公に仕えました。
これは不仁の極みと云えませんか?」

と問うた。

孔子は、

「その当時(百年位前)は
周室の勢力が既に衰えておって、
諸侯は王の命に服さず、
夷狄(いてき)は
混乱に乗じて
中原を窺うという有り様であった。
この時
桓公が武力を用いず
諸侯を糾合して夷狄を追い払い、
周室の威信を守ることができたのは、
ひとえに
管仲の力によるものである。
確かに殉死しなかったのは
不仁義であることには違いないが、
天下を平定し
王の威信を守った功績を考えれば、
管仲は
小義よりも大義に殉じた
大人物と云えよう。
召忽の仁義は
管仲の仁義に及ぶものではないよ」

と云った。

【解説】
本章はそのまま直訳したのでは、
何故子路がこのような質問をし、
孔子が何故このように答えたのか、
良く分かりませんので、
意味が通じるように文言を補って
通釈してみました。 
(中国の古典に詳しい方にとっては、
要らぬお節介だったかも知れませんね、
悪しからず)
 


九合とは
世界が、ひとつになる事

しかし、その道のりには
ひとりひとりの

孔子の言うところの
「仁」
備わって
いなければならない

武力を用いず
追い払い
王の威信を守る

はたして
この乱世
そんな事をできる人物が
居ようか

問答、論破できる
人物が居ようか

もしかすると
「九合」という意味は
違うのかも知れない




ひとりで
おもしろがってます
🤣すみません