共同通信 書評 2018年7月 島本理生『ファーストラヴ』 | 高い城のCharlotteBlue

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書評家アイドル 西田藍さんの、書評を紹介してゆきます。
基本的スタンスとして、書評でとりあげている作品は読んだことがあるとしています。
ネタバレを気にする方はご注意ください。

2018年月18日追記。

『ファーストラヴ』直木賞受賞。

このブログは西田藍さんの書評について語っていて、作品については薄いので、なんか便乗のようで申し訳ない気持ち。



共同通信 書評 2018年7月

島本理生『ファーストラヴ』


 何だか色々と書こうと思うことがあったのだけれど、冷静に考えてみると、書くほどのことでもない気がするので、とりあえず簡潔に事実だけ書こう。


7/2 西田藍さんのTwitterアカウントが削除
7/3 ブログが更新されて、この書評の告知と共に、落ち着いたらTwitterアカウント復活させる、との追記
7/6 Twitterアカウント復活
以上。


 兎にも角にも、西田さんが書評を書かれ、ブログを更新され、Twitterアカウントも再開された。最高の結果だ。これ以上何を望むというのか。

 閑話休題。

 さて、共同通信の書評も久しぶりだ。手元の資料だと一年ぶり五回目。2017年7月にパク・ミンギュ『ピンポン』の書評を書かれて以来だ。
 実を言うと、先週、西田さんの4、5、6月のお仕事をまとめながら、7月には何の予定も見えていないことに気をもんでいたので、これは嬉しいサプライズだった。僕は文芸誌はちょくちょく目を通すし、週刊新潮の書評欄はだいたい毎週読んでいるのだけれど、新聞の書評欄はチェックし切れない。
 なにしろ共同通信の書評は地方紙にしか載らない。そして、どの地方紙にも必ず載るとは限らない。共同通信社から提供されたいくつもの書評の中から、各紙の編集の方が適宜選択して載せるのだそうだ。
 僕はこの仕組みを西田さんの書評を読み始めるまで知らなかった。新聞の書評欄も見かければ読むたちだし、それこそ中学生ぐらいから読んでいたのだけれど、そんなシステムだったとは。
 この新聞というヤツは、発刊の翌日以降だと手に入れるのがとても面倒だ。そんなわけなので、図書館に行ってコピーをとってきた。※1

 僕は島田理生作品をあまり読んだことがない。たぶん、群像新人賞を取った「シルエット」だけだろう。当時は新人賞の作品を徹底的に読んでいたからだが、その後は手に取らなかったのは、ちょっとピンとこなかったのだろう。ぼくはそもそも、愛だの恋だのにはあまり興味がないタイプだ。
 書店で買ってきた『ファーストラヴ』と、図書館でコピーしてきた書評を並べて、少し逡巡した。僕はだいたい、まずは西田さんの紹介される本を読んでから書評を読み、自分の感想と西田さんの紹介を比較してみるというスタイルをとる。しかし、今回はちょっと先入観のある作家の作品だ。
 迷った末、書評から読むことにした。

 西田さんは、最初にあらすじを紹介する。父親を刺殺した就活中の女子大生のノンフィクションを書くため、彼女と彼女の周囲と面会を重ねる臨床心理士の主人公、というようなものだが、これは本の帯に書いてあることだ。

――という帯のあらすじに目をやった上で本を開く。

 さてSFマガジン連載の「にゅうもん! 西田藍の海外SF再入門」でご自身が書かれていることだが、西田さんは「本を手に取る時、結構解説から読むタイプ」なのだそうだ。だから、帯のあらすじから読むことは良くあることなのだろう。※2
 しかし、これから書評を書こうというのに、誰かの書いたあらすじを使う、というのは違和感があった。
 そう思っていたら、次の段落はカバーの折り返しに書かれている、女子大生・聖山環菜のセリフを、ほぼ丸ごと引用している。

カバーにはこんなせりふが記されていた。「正直に言えば、私、嘘つきなんです。自分に都合が悪いことがあると、頭がぼうっとなって、意識が飛んだり、嘘をついたりしてしまうことがあって」

 この時点で全体の1/4だ。ここまで、西田さん自身の言葉で語られた部分がほとんどない。とはいえ、実はまだ本を開いたところなのだ。本文に取りかかってもいない。
 と、次の段落から西田さんの声があふれる。

ああ、彼女は何らかの虐待を受けていたのだ。私は読み進めるのが怖かった。(中略)しかし、逃げたくはなかった。この小説は、虐待を受けたかわいそうな美しい少年少女を、めずらしくてきらびやかなアクセサリーのように配置する創作物ではない、と言う確信があったから。

 驚いた。これはなんだろう。この虚言癖っぽいものは、何らかの強い抑圧を受けていたからだろう、というのは僕でも考える。それはきっと虐待だろう、というのもわかる。しかし、「めずらしくてきらびやかなアクセサリーのように配置する創作物ではない、と言う確信」というのは、僕にはなかった。
 だけどそうだな。この「嘘つき」という告白を前に掲げたこの小説が、安っぽい感動ポルノであるはずがない。わざわざこれを持ってきたのには、きっとそういう覚悟めいたものがあったからだろう。
 なるほど。これだけでも十分だ。作家が、編集者が、出版社が、そういう思いを見せているのだから、この本が凡庸なものであるはずがない。西田さんはその点を指摘してくれたと言ってもいいんじゃないかな。
 作品の内容を紹介した後、西田さんはこんな風に結んでいる。

ただ、この作品が注目されるのはうれしい。記憶が混濁し、何も説明できない、嘘つきで性的に放縦な彼女の感情と過去とその全てひとつひとつ、読まれてほしい。繊細に編まれた物語が、ただ、読まれてほしい。

 これを書いている僕は、既に本作を最後まで読んでいるのだけれど、その視点で見ると、西田さんが「ただ、読まれてほしい」と言った意味が良くわかる気がする。
 ラスト近く、裁判後の環菜からの手紙にこんなことが書かれている。

法廷で、大勢の大人たちが、私の言葉をちゃんと受け止めてくれた。
そのことに私は救われました。
苦しみも悲しみも拒絶も自分の意思も、ずっと、口にしてはいけないものだったから。
どんな人間にも意思と権利というものがあって、それは口に出していいものだということを、裁判を通じて私は初めて経験できたんです。


 さらに、主人公は最後のシーンで夫に、ずっとタブーのように蓋をしてきたある想いについて、もっと自由に話したりしていいんだ、ということを言われる。これも全く同じ構図だ。
 これは僕の解釈になってしまうのだけれど、この本を読んで何かを表明したり、行動したりすることは必ずしも必要じゃなくて、大事なのは、そういう「言ってはいけないと思って口をつぐんている」ということがあるのだ、ということを知ることだと思う。
 だから、そういう意味では本の感想を言ったりしなくて良くて、僕みたいに拙い文章を長々と書くのは本当に余計なことで、ただ「読んだ」と言えばいいのだろう。
 なにしろ、作品の冒頭に、奇しくも主人公自身の言葉で書かれている。「愛とは見守ること」だと。なるほど。「ファーストラヴ」か。



 さて、ここからは蛇足だ。
 作品とは少し離れて、西田藍さん自身に関することで、少し気になったことがある。こんなことばかり書いていると西田さんには嫌われそうだな、と思ったりもするけれど、そうしないではいられないのが僕の業だろう。
 西田さんは児童福祉にとても関心があるらしく、そもそもフェミニズム的思想も入り口は児童福祉からだった、ということを話されていたことがある。
 それはそもそもご自身の経験からで、だからこの作品のような児童虐待に関するものは思い入れがひとしおなのだろう。吉田豪のインタビューによる『帰ってきた人間コク宝』を読むと、過去の暴力的、性的虐待の存在について少しだけ語られている。
 この『帰ってきた人間コク宝』には、西田さんは小学三年生の頃に希死念慮について友達に話してドン引きされた経験があったとして

 

だからこれは言っちゃダメなことなんだと思ってからは空想で紛らわせていました
 

と言われている。これはまさしく『ファーストラヴ』の中にあったのと同じものだ。※3
 そういうわけで、このあたりは腑に落ちる。気になったところというのはここじゃなくて、書評の中に西田さんが書いた一文だ。
 

「嘘つき」と言われてきた私は、自分を彼女に重ねてしまう。
 

 これは何だろう。僕の知る限り、西田さんが「嘘つき」呼ばわりされていた過去に触れたことはなかったように思う。『帰ってきた人間コク宝』以前にも、過去のあれこれを垣間見れるような言葉はいくつかあったのだけれど、その中にもこれに近いようなものはなかったと思う。
 もちろん、かつての自分だったからこそ、カバーの折り返しの文章が胸に迫ったのだろう。そして過去に西田さんの置かれた状況を考えれば、そうだったとしても不思議はない。
 しかし、では西田さんに「嘘つき」と言ったのは誰だろう?
 いや、そこではないな。若干以上に希望的観測ではあるのだけれど、かつて「嘘つき」だったということを言ってもいいのだ、というふうに西田さんが思ってこれを書かれたのだとしたら、それはとても良いことに違いない。
 『ファーストラヴ』を読んだ後では、柄にもなくそんなことを思ってしまうのだ。

 


 

 

 

 

※1 『ピンポン』の書評が載ったのは、僕が調べた地方紙49紙のうち13紙だった。なお、少し前に詩人の杉原美那子という方が同じく『ファーストラヴ』のについて書評を書かれているので注意が必要。

 

※2 SFマガジン 2015年8月号 第五回 グレッグ・イーガン『幸せの理由』

 

※3 文學界3月号で、昨年末の「激しい希死念慮」について書かれていたがそれを明らかにされたこともプラスに考えるべきなのだろう。だとすると、この記事のタイトル「生きるのをやめない」に深い意味を感じてしまうな。