西田さんの文章は、ほとんどが自らに寄せて書かれている。作品を自分に重ね合わせて語るものだ。
僕はその書き方がとても好きなのだけど、どうやら僕の中でもその書き方の好みがあるらしい。
ユリイカで言うと5月号の「美しい偽史」や、2017年9月臨時増刊号「中学生のウテナ」なんかは、作品に触れていた少女時代の自分を現在から振り返りながら書かれている。
一方で、2016年12月特別増刊号の「失恋に狂うゴジラ」や2015年8月号の「陰気なけもの」、2013年10月号の「遊覧しよう」は、その執筆当時の西田さんに重ね合わせられている。
長くなるので省くが、SFマガジンの「にゅうもん!」では後者が多いが、一部で前者のスタイルも見られる。
単純に二極化したくはないけれど、どうやら僕が好きなのは現在の西田さんに重ねられた文章だ。ユリイカの文章はどれも好きなのだけれど、より突き刺さるのは、今の西田さんの感じ方や考え方がしっくりくるようだ。
読み終わった後に充足感を覚えるのは、こちらの方のように思う。
ただ、細部まで読み込むのは、少女期の西田さんの描写の方のような気がする。興味を引かれるのはこちらの方だ。
はっきり意識していなかったけれど、どうやら僕は西田さんの思考経路を愛していて、それを理解するために少女時代からの西田さんを知ろうといているのだろう。
そういえば、文學界3月号「生きることをやめない」は現在の西田さんの視点だ。
未だ不安定であるようではあるけれど、そんな西田さんが、現在のご自身と過去の振り返りを書かれているわけだ。
この二つを比べてみると、何か見えてきそうな気がする。それもいずれやってみるかな。
ああ、こうやって、やっぱり少女時代の西田さんの姿を深掘りするのか。
まあ、たまには西田藍の名がTLに流れるようにはしたいんだよね。