ホンシェルジュには、〈本とアイドル〉というカテゴリがあって、西田藍さんの書評も当然のようにここに分類されている。
僕はそんなに熱心な読者ではないけれど、ものを書く女性というのが好みなので、西田さん以外の方が書かれた記事も、ぽつぽつと読んではいる。
年明け早々、『グレート・ギャツビー』についての評が公開されていた。Chubbinessの高尾苑子さんという方が書かれたものだ。
この本は西田藍さんも特別な一冊としている。「文學界」2013年8月号での『ギャツビーがすきだけどきらいなの』というのが、西田さんの書評家キャリアの第一歩ともいうべきものだ。
この書評の感想は僕も書いた。Link
しかし、高尾さんの文章はきれいだな、と思った。なるほど。これがアイドルの書く文章というものかもしれない。作品の読み方も表面的なものに留まらず、ギャツビーの手に入れたかったものについて理解が及んでいると思うけれど、その書き方は率直で迷いがない。高尾さんがどういう本読みかは、他に紹介されている本を見れば大よそわかる。浅いとは思わない。本を読む習慣のある人なのだろう。
翻ってみると、西田さんの文章はやや複雑だ。そもそも、ストーリーや内容を紹介しようという気がない。もちろん媒体の違いもある。webと文芸誌だし。文章もやや感情過多であるし、本の紹介と言うよりも、作品に投射した自分自身を書いているようなところがある。
ただ、僕が高尾さんの文章よりも西田さんの文章に惹かれるのは、そこに濁りがあるからで、その暗い部分と『グレート・ギャツビー』の裏に流れるルサンチマンと引き合うのを感じるからだろう。
ギャツビーは、根本的に駄目なヤツだ。持ち前の才覚で一発当てて大金持ちになったのに、田舎の貧乏人という出自のコンプレックスから逃れられなかったし、実際にその壁は乗り越えられなかった。上流階級には、金や才能や努力では辿りつけない。
そういう、階級意識に感じる鬱屈した感情は、高尾さんの文章からは感じない。だから、きれいで濁りの無い文章になるのだろうし、その方がアイドルらしいと思う。おそらく、そういうものを意識したことはないのだろう。いや、逆だな。西田さんにその意識が妙に高いのだろう。
どっちが上とかいう話ではなくて。
最近、ちょっと興味があって港区女子とか、ギャラ飲み、パパ活あたりの情報を良く見ているのだけれど、タワマン・パーティーとやらには、ちょっと『グレート・ギャツビー』的な空虚さを感じる。言うほどハイ・グレードでもないみたいだし。
もともとの東京出身者が、地方から都会に憧れて出てきて、港区界隈で派手に遊びまわる若い女性に向ける冷ややかな視線も含めて、そんな感じだ。
また、このあたりが、姫乃たまさんの描く「地下アイドル像」とも重なるんだよね。
西田さんは港区女子になろうとは思われないだろうが、届かないとわかっているものを見ている、という点で似ている気がする。
そういうグレードが高いものが、上質とは限らないのだけど、僕と西田さんでは立ち位置が違いすぎるから、理解できるとは言えないんだよなあ。
そんな、グレードと『グレート・ギャツビー』の話、