『にゅうもん! 西田藍の海外SF再入門』2017年2月号 特別編『私の中のディストピア』
オルダス・ハクスリー『すばらしい新世界』(新訳版) 大森望訳
人はユートピアに住んでも不平をこぼすものらしい。つまりは完璧なユートピアはありえないということなのかもしれないけれど、たぶん、世の東西を問わず、愚痴をこぼし合う習慣というのはあるものだろう。それは自由さの象徴のような気もするけれど、『夜と霧』にだってそれに近いシーンはある。
それならば誰も不平を持たない世界というのがあったとしたら、それは完璧なユートピアなのか?、
西田藍さんは、このように問いかける。
自由を奪われるのはごめんだ。だが、自由を預けたくなるような何かができたとき、私は、目先の幸福感と引き換えに自由を引き渡してしまうかもしれない。
この『すばらしい新世界』はジョージ・オーウェルの『一九八四年』と並び称されるディストピア文学の双璧だけれど、その内容はまったく逆方向だ。
『一九八四年』が徹底的に抑圧する管理社会なのに対して、『すばらしい新世界』は誰も不平を持たない世界だ。
何故か? 西田さんの説明を引用しよう。
生殖は工業化され、人類も工業製品のように瓶詰めで生産される近未来。アルファからイプシロンまで、別れた階級の人間が生産される。それぞれ自分の階級が一番幸せだと信じるように、睡眠学習によって頭の中まで作りこまれている。
せっかくだから、その睡眠学習の例を作品から引用しよう。
「アルファの子は灰色の服。わたしたちよりずっとたくさん勉強する。すごく頭がいいから。わたしはベータでほんとによかった。あんなにたくさん勉強しないで済むから。ガンマやデルタよりもずっといい。ガンマは莫迦。みんな緑色の服を着ている。デルタの子はカーキ色の服を着ている。いやだ、デルタの子とは遊びたくない。イプシロンなんてもっとひどい。頭が悪すぎて読み書きもできない……」
上の階級を羨まず、下の階級を見下し、今の自分で良しとする。ひどい階級意識のようだけれど、現代の我々だって、「ありのままの自分に満足しなさい」と教えられてはいないか?※1
この世界は自由ではない。生まれた時から階級が決定され、職業が決定され、その枠組みから外れることはできない。
だが、その定められた役割は適切なのだ。生まれる前から、その職業に適性を持つように調整されている。化学工場の労働者は様々な化学物質に耐性を持つように、ロケット飛行機のエンジニアは逆さまになって作業することに喜びを感じるように、という具合だ。
能力以下の仕事しかあてがわれないこともないし、能力以上の仕事を押しつけられることもない。
遺伝由来の病気もないし、もちろんあらゆる障害もない。
これだけ見ると、「あれ、考えようによっては、意外と悪くないんじゃね?」と思わないだろうか。
幸福感と引き換えに、自由を手放してもいいと思わないだろうか? 十代の僕はちょっとそう思ったんだよな。
ただ、この世界は誰もが生活に不満を持っていないので、あらゆる文化はない。書物は存在しない(むしろ禁忌だ)し、音楽や映画のようなものはあるけれど、凡庸で刺激の少ないものしかない。
乱暴な言い方をすれば、みんなリア充なので、オタクのようにフィクションの世界に没頭する理由がないのだ。
リア充という言葉を使ったから、性愛に関しても書いておこう。
この世界は家族という概念がない。新生児は瓶詰めで生産されるものだし、教育も養育も政府管轄で行われるので、そのような単位は不要なのだ。
すべてはみんなのもの、という概念なので、ポリがミーが推奨されている。不特定多数の相手と性交渉を持つのが道徳的とされているのだ。「礼儀作法にうるさい」とされる所長は、若い女性職員のそばを通りかかったら、軽くお尻にタッチするのを忘れない。
昔読んだ時は違和感しか感じななったけれど、この歳になって再読したら、このあたりで大いに笑った。
まあでも、西田さんはこの性愛の正しさが人為的に規定された世界に不快感を示されている。
そもそも、ポリガミーが「正しい」とされる社会と、今現在のモノガミーが「正しい」とされる社会とどう違いがあるのか? 結婚することが強制であった社会と同じくらいの嫌悪感だ。
あるいは、こうも書いている。
確かに。西田さんは「こうあるべき」というロールの押しつけを嫌う。「お前は◯◯なのだから、◯◯のように振舞うべき」ということに対し、時に強く反発される。※2
これもまあ同様である。
もう一箇所引用しよう。
徹底的階級社会を維持するための娯楽に、生殖から完全に切り離された性愛が選ばれている。不満なのは、異性愛しか前提にない上に、幼少期から性愛を教え込まれることだ。それぞれ人類の性欲も調整済みではあろうが、ここまで調整された社会で、わざわざ性交や性遊戯をするのか、面倒臭い。
これだなあ。確かに面倒臭い。瓶詰めで大量生産されるのだから、性機能など不要ではないか。
このへんは、ハクスリーの思想らしいんだよな。僕はユートピア小説『島』は読んだことがないが、そこでもフリーセックスを推奨しているらしいし。ハインラインの『異星の客』とかもそうだけど、なんかユートピアがそっち方面の特徴を持ってるのって多い気はする。
必ずしも、おぞましいものとはしていない。「管理社会」は酷いものと表現されているのに。
このあたり、よくわからないなあ。
西田さんは、「性という一番個人的な事柄を社会に預けているのが、社会維持のポイントだろう」と分析されているけれど。
もうひとつ。西田さんが気に入らないのが不妊処置が女性にしか為されないこと。
実は僕は、最初に読んだ十代の時も、最近になって新訳版を読んだ時も、その事に気がつかなかった。不妊処置された女性、されてない女性というのは作中に登場するので、不妊処置があることはもちろんわかっていたけれど、男性にも当然処置されているものだと思っていた。
たまたま、所長とリンダがそうではない組み合わせだっただけで。
しかし、ちゃんと読んでみると序盤の「孵化条件付けセンター」でのやりとりで、胎児が「男性」「女性」「不妊個体の女性」と分けられている。
しかもここに、「受精能力はたんに厄介なだけというケースが圧倒的多数だからです」というセリフがある。
そうなんだよな。ただ卵子と精子そのものを作り出すことはできないので、採取する必要があるようなのだけれど、そのために残されているらしい。
外科手術で卵巣をセンターのために提供すると、給料の六ヶ月分を貰えるらしいが。僕はここも、男性も精巣の提供ができるものだと勘違いしていたんだよな。
まあ、効率だけ考えれば、優秀な卵子、精子を提供するための専門職を作ればいいのに、と思うのだが。さすがのこの世界も、そこまでおぞましいことはしないらしい。多様性の確保かとも思ったが、そもそも瓶詰め胎児はすべて一卵性多胎児だしなあ。
僕が不妊処置や生殖器官の提供が男女共に為されると誤解していたのは、たぶんこの世界では男性も女性も分け隔てなく社会に参画しているからだろう。
世界統制官は男性だけれど、重要な立場にいる女性も結構出てくる。1932年に書かれた小説としては画期的だ。
そういう意味では、かなり新しい思想が反映された小説らしい。このあたりは西田さんが詳しい。
すばらしいディストピアとはいえ、男性優位社会が残されている。八十年前の小説なのだから、当たり前だろうが。女性は当然、普通選挙が行われない国が多数派だった時代だ。イギリスで、男女が平等に参政権を持つようになったのは、一九二八年。この小説の刊行は、一九三二年。描かれた未来世界は民主主義社会ではないが、この当時最新の時流は取り入れられた。だからこそ、性描写は古臭いとはいえ、社会進出に男女差はほとんどない。
そういう意味では慧眼だったのだな、ハクスリーは。
まあ、『すばらしい新世界』は、わりと「惜しい」未来社会だ。もうちょっとで、自由と引き換えにしても良いと思える「幸福」が実現できたかもしれない。
西田さんの好みにも合わなかった。
生殖という個人的事情を、国家が管理しようとするのは、変わらない。個人主義が反社会的である、とされるのも変わらない……それでも、私が生きる今の世界の方が、マシ。
ここ、ちょっとわかりにくいな。
結婚・出産を政府が推奨したり、性嗜好や性的役割を法的に規定したりしていることとか、妊娠すると「社会人として自覚が足りない、迷惑をかけるな」的なことを言われたりするようなことを、指しているのだとは思われるけれど。
さすがにちょっと古すぎるので、現代を生きる我々にはもう合わない部分が多くなってしまっている。しかし、そのシステムは一考に値するかもしれない。
かつて、週刊新潮でキャス・サンスティーン『選択しないという選択』(勁草書房)の書評を書かれたとき、西田さんは「デフォルトをどう選び、委ねるかに、現代人の選択と自由があるのだ。」と言っている。※3
だから、もしかしたら、違う形での「すばらしい新世界」なら?
実際、西田さんも書かれている。
では、ぴったり好みに合った、“すばらしい新世界”が創造されたなら?
もう一度言うが、これがディストピア小説の魅力だと思う。
※1 「足りることを知れ」とか「ささやかな幸せ」とかも、考えようによっては体制が管理するのに都合がいい思想とは言える。
※2 だから、西田さんに「アイドルなんだから◯◯すべきでしょ」などと言えば覿面である。例のSF作品とあわせて覚えておきたい、嫌われテクニックだ。
※3 同時期に書かれたらしく、この書評でも『すばらしい新世界』は紹介されている。