西田藍さんが文庫解説を書かれた『おふるなボクたち』中島たい子(光文社文庫)を読む。
その中で西田さんが「できれば、ぴかぴかした新しいものに囲まれて暮らしたい」というような事を書かれている。
ん? と思った。
先日、西田さんが「ちくま」に書いたエッセイ『クリーム色の彼ら』の中で、武田百合子の『遊覧日記』の余白の書き込みについて述べられていることを書いた。
ああ、西田さんって、本に書き込みをする人なんだ、というのが、最初に読んだ時の感想だ。
感想ならわかるが、その時読んでいた本に時給計算も書き込んでしまうんだ、というのはちょっと面白かった。
本読みが、本をどんな風に扱うかは、結構色々だ。
こだわらずにページの端を折って栞がわりにする人もいれば、癖がつかないように大きく開くことさえ避ける人もいる。
観賞用、保存用と二冊買え、という一派もいる。※1
大雑把に分けると、すごく本を大事にして新品同様でとっておきたい派と、自分の好きなようにページを折ったり付箋を貼ったり書き込んだりする派、だろうか。
最近のTwitterで、西田さんは読んでいた本の内容に腹が立ったら投げるぐらいのことはする、みたいなツイートをされている。少なくとも、本を新品同様に保とう、という考えは持っておられないということがわかる。
なるほど、僕は腹のたった本を駅のゴミ箱に投げ込んだことはあるが、投げつけたことは、あんまりないな。※2
僕自身は色々と揺れていて、一時期は「本は内容が大事であって、書籍の形態には価値が無い」というのがカッコいいと思っていて、本を買ったら、まずカバーを捨て、ハードカバーなら持ち運びや片手で読むのに不便なので表紙と裏表紙を破り捨て、分厚い本なら適当なところで二つに割いて持ち歩く、ということをしていた。
おかげでボロボロになった本も多い。※3
かと思うと、装丁が気に入って、単行本、文庫本、映画版カバーの文庫本、という感じに複数冊持っているものもあったりする。これらは絶版本の専門書店にならって、グラシン紙でカバーを作って保存していたりする。
最近は、本の余白に感想を書いたりするのは悪くないな、と思っていて、後から読み返すとそれはそれで面白いのではないか、と思っている。そういえば、予備校生時代に読んだ岩波文庫のキェルケゴール『死に至る病』とか、余白にびっしり書き込んだ記憶があるんだが、あれ、どこにやったかな。
教科書的に読む本には、付箋も貼るしアンダーライン、蛍光ペン、書き込みは散々やるのだが。
最近は蛍光ペンで線を引いたように見える細い付箋を100均でも売っているのがありがたい。※4
ふと思ったのだが、短編というか掌編、ショートショートみたいな文章に、西田さんが思ったことと書き込んだものを公開する、というのはどうだろうか。
権利関係がめんどくさくて難しいかな。
西田さんが、ハヤカワ文庫の企画で、読書感想文に赤ペンを入れる、というのを2015年にやっておられるけれど、それを短編小説を読みながらやってほしい。
例えば、海野十三『生きている腸』とか。オールドミスが優しくされてつい、みたいな表現に、西田さんがどう反応されるのか見てみたい。
あるいはティプトリーの『ヒューストン、ヒューストン、聞こえるか』とか、笙野頼子でもいいなあ。
いや、違うな。もっと俗っぽいのがいい。
筒井康隆『ポルノ惑星のサルモネラ人』だな。たぶん、西田さんは読まれているだろう。未読なら未読で、初読でどう感じるかは面白そうだが、この猥雑な作品を読みながら、リアルタイムで余白に書き込みされたものを読んでみたい。
ペニスズメとかタタミカバとか、そしてあのメタなオチとか、どんな風に感じるか。そもそもあの学者の女史のひどい扱いとかは、さぞかし熱のこもったコメントを……。
おっと、個人的妄想が過ぎた。
まあ、要するに、Twitterで言うところの実況だ。
僕は兎にも角にもテキスト主義者なので、文章から想起された文章を臨場感たっぷりに読んでみたいのだ。
そんな妄想が今日の駄文。
※1 さらに先鋭化すると、布教用にもう一冊で合計三冊、というのはもう常識か。
※2 あんまりないが、高校生の頃、シドニィ・シェルダンで二回ほど。あれは訳が……まあ、言い訳はすまい。
※3 『ゲーデル、エッシャー、バッハ』とかは、20周年記念版が出た時に、ちょっと惜しい気がした。
※4 これを使って、先日の西田さんの「にゅうもん!」に従って、『ハイペリオン』をチェックし直した。