SFマガジン2015年12月号
『にゅうもん!』第七回『第六ポンプ』
パオロ・バチガルピ
ちょっと意外なセレクト。パオロ・バチガルピかあ。
「にゅうもん!」で取り上げた作品で,僕が未読だったのは,これとチャイナ・ミエヴィル『都市と都市』の二冊だ。まさか21世紀になってからの作品とは。「海外SF再入門」だから,なんとなくオールタイム・ベストから選ぶものだと思っていた。まあ,バチガルピは『ねじまき少女』で「ニューロマンサー以来の衝撃」と大絶賛された作家だし,今どきの海外SFというのに触れるのも悪くない。
というわけで,『第六ポンプ』を読んでからだったので,時間がかかってしまった。
バチガルピは『ねじまき少女』でもそうだったけど,ノワールのテイストの小説を書く。この『第六ポンプ』もそうだった。また,中国だのバンコクだのを舞台にしているせいか,ブレードランナー的なサイバーパンクの味もする。
さて,西田藍さんは「にゅうもん!」第一回で,『ニューロマンサー』が全く合わなかった。
一方で,確かノワールがお好きだったような気がする。以前,ジョン・ル・カレのことをTwitterで語られていた覚えがある。※1
この二つをあわせたものが,お気に召すかどうか,ちょっとわからなくて,この回を読むのが楽しみだった。
西田さんは、いきなりこう問いかける。
ディストピアは好きですか?
この『第六ポンプ』は短編集だ。どの作品も,読後に何とも言えない,いやーな気持ちになること請け合いの,ひどいディストピアが描かれている。もちろん,この表現はディストピアSFに対する賛辞だ。
しかし,この後味の悪さと相性の良いこの文体は,と思ってたら,翻訳者の一人に金子浩の名前があることに気づいて合点が行く。そっか,ジャック・ケッチャムの人だよなあ。※2
個人的には,西田さんは少女が楽器に改造されている『フルーテッド・ガールズ』がお好みかと思ったのだけど,取りあげられているのは『砂と灰の人々』と表題作『第六ポンプ』だった。※3
こういう予想,当たったためしがないなあ。
別に社会派というわけではない。怖い話、後味の悪い話が好きなだけ。しかも、大好きなサイエンスの香りもするんだからこれは好きになるに決まっている。
『砂と灰の人々』は,たぶんハーラン・エリスン『少年と犬』の影響が大きいと思う。まあ,あっちは犬を食べるのではなくて,犬が食べるのだけど。
西田さんが『砂と灰の人びと』のあらすじを知ったという,2ちゃんねるの「後味の悪い話」スレでも『少年と犬』は紹介されていなかったかな。
主人公は考えた。犬へ感じた親しみ、その正体はなんだろうか。しかし、その後、犬との時間は長くは続かなかった。喪失感だけが残ったのだ。後味悪い、話でしょ。
なんで、そんな楽しそうなんですか? いや、わかるけど。僕も好きだけど。
しかしまあ,『砂と灰の人々』もそうだけど,『第六ポンプ』なんて完全にギャグなんだよな。インフラを支えるポンプに問題が発生して慌てて対処しようとしたら,みんなバカばっかりでどうにもならなかった,というひどい話。なんだか不条理ギャグにでもなりそうな感じだ。
人類は,生存競争に勝ち残るために知性を獲得した。逆を言えば,生存競争に勝てるだけの十分な強さがあるのであれば,知性は不要なのだ。作中の人びとが十分強いかどうかは疑問だが,少なくとも過酷な生存競争を勝ち抜く必要はない,あるいは,なかった。
そうしているうちに,手遅れになってしまっているのだが。
このあたりを紹介する西田さんの文章の、なんとも楽しげなこと。
ポンプの故障がいよいよやばいということで、ポンプ本体を見に行くと、誰も理解できないエラーがびっしり。元上司の教えも追いつかない事態に、トラビスはポンプのメーカーを探す。ない。専門家を探す。いない。大学へ出向く。しかし、工学部が存在しない! 大学にいたのは……性交にふける若者たちのみ
筆が躍っている。いいなあ、ここ。
それでも西田さんは,その中で,孤軍奮闘して何とか「学ぼう」とする主人公トラビスの姿勢に共感する。
ああ,そっちかあ,という感じだ。
教育とか学習といったことについて,西田さんはセンシティブだ。だから,限定されたり偏向したりしている教育だとか,形骸化している教養だとかを嫌う。だからこそ,逆に出来る限りのことをして知識を習得しようとする主人公に心を動かされるのだろう。
まあ,これこそ生きた学習だよな。ただ,その未来はあんまり明るくないのだが。
高校に行けばよかったと後悔する彼を激励したい。『よくわかる数学』をあげたい。教師もいない彼はこれからきっと専門書を孤独に読んでいくのだろう。人間の知が消えませんように。頑張れトラビスッ!
読点がない。この饒舌さ。
いや、楽しそうで何より。本当に、ディストピアが好きなんですねえ。
意地の悪い見方をするけれど、この絶望的な状況で、本当にか細い希望にすがって必死に足掻くトラビスが、苦境であればるほど、萌える、のではないだろうか。
この珍しいテンション、そういう風にも見えるんだよねえ。
彼が強いのは確かだ。すぐ挫けて、うじうじと悩むような主人公では楽しくあるまい。彼は強い。だが強いからこそ、より報われない。
別のところから文章を引用しよう。
私は彼になれないし、彼の世界に行けないし、想い人にもなれない。不幸をどうすることもできない。不幸さに〈萌える〉しかなくなるのだ。不幸萌え、は欲望である。大きな欲望。
これは文學界2013年8月号で西田さんが『グレート・ギャツビー』について書いたものだ。
まあ、トラビスの想い人はデイジーのようなお嬢様ではなく、教育を受けた知識人なのだけど。ただ、デイジーと同じく、西田さんが自分もそうありたい、と願った存在ではある。
穿ち過ぎかな。
まあいい。身勝手な解釈はいつものことだ。
僕にはそう感じられた。それだけは間違いない。
そしてそう思って読むと、最後の結論には同意できるものの、ちょっと何と言うか、とってつけたような感じがある。やっぱり……とか、思ってしまうのだ。
共感しそうになるけど彼と同じなのは学歴だけ。私は、無秩序化する世界の中で、正気を保ち続けていられる自信はない。
彼は、強い。
※1 と思ったら,今日(2017/8/17)はジム・トンプソンの名前が出てきた。シンクロニシティ!
※2 もちろん『隣の家の少女』はトラウマだ。
※3 今回取り上げた二編は中原尚哉訳。