『にゅうもん!』第八回『地球の長い午後』 | 高い城のCharlotteBlue

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書評家アイドル 西田藍さんの、書評を紹介してゆきます。
基本的スタンスとして、書評でとりあげている作品は読んだことがあるとしています。
ネタバレを気にする方はご注意ください。

SFマガジン2016年2月号

『にゅうもん!』第八回『地球の長い午後』

ブライアン・W・オールディス

 

 午後という言葉は、頽廃と倦怠を連想させる。三島由紀夫は『午後の曳航』を書いたし、星新一は『午後の恐竜』を書いている。

 人類文明がすでに滅び、人類は生き残っているものの、文化と知性をほとんど失ってしまっていて、おそらく緩やかに滅んでゆくのだろうと思う世界。西田さんは、子供の頃に、いつか太陽が赤色巨星となって終焉を迎えると聞いて、地球が太陽に飲み込まれる、地獄のような未来を想像したと言う。

 だが、この作品で描かれている遠未来は違う。オールディス自身が表現した「心地よい週末」、いわゆるポスト・アポカリプスな世界が、この『地球の長い午後』だ。

 ロマンチックな終末、と西田さんは言う。

 

厭世高まった時代でも、ヒトは再生産を続けてきた。そうしてヒトは殖えてきた。まだ殖えている。これからも殖えるであろう。とりあえず、私が生きているうちは。

 

 ディストピアとは、ちょっと違う。だけど、その有閑でアンニュイな感じは、それだけでたまらない。ここまできたら、あえて使い古されて陳腐な表現を使おう。

 文学的なのだ。

 

 ただ、ちょっと、こいつは文学的に過ぎるんだよなあ。

 

 国内、国外を問わず、文学的な主人公は、だいたい“いけ好かない”ヤツだ。

 この作品の一番の欠点は、主人公のグレンが、どうにも気にくわないヤツってことなんだよな。頭は少々いいかもしれないが、想像力が足りないし、共感力に欠けるし。知性の根源であるアミガサタケを得ても、それは基本的に変わらない。

 だいたい、女に言うことをきかせるためにぶん殴る、というのはどうなんだ。

 

 たぶん、そこは西田さんも承知の上だろう。グレンについては全くと言っていいほど言及されていない。

 西田さんがつぶさに言葉を紡ぐのは、この終末の世界だ。母なる大地である地球は活動を停止し、地表は植物に支配され、その隙間を縫うようにして、様々に変容したヒトの子孫たちが生き残っている。

 

空、海、森。他の生物と融け合いながら生きる様々なヒト。知性を持たないもの、もつもの、強いもの弱いもの。高い知性を持つある種のヒトは、ヒトの歴史と、地球の寿命を知っていた。太陽はますます近づき、地球は飲み込まれる。数十世紀あとには、この世界は消える。太陽、そして地球が終わるように、地球上の生命も終わる。ひとつの生命から枝分かれして殖えに殖えた種は、またひとつの生命に還るのだ。

それは過去私がイメージしていた〈地獄〉とは程遠い、ロマンチックな終末だ。

 

 どうやら、この未来図がお気に召したらしい。

 はっきりそう言ったことはないのだが、西田さんは、たぶん魂の不滅とか死後の世界とかを信じていない。よく生きて死んだら土に還って、次の生命を育む培地となる、そういうのを良しとするのだろう。

 そうやって自然の一部になることを、ロマンチックと表現しているようにも見える。

 

 象徴的な、すごく良い文章を引用しよう。

 

多種に溶け込み、地球に溶け込み、太陽に溶け込む。生まれたところに還るって素敵。私たちは銀河に溶けるの。

 

 まあ、確かに、この作品の一番の魅力はストーリーじゃない。ラストにグレンが下した結論も、昔から色々と解釈されたりするけれど、要するにロマンチックな頽廃と考えれば、背景に溶け込む。※1

 そうなのだ。ナウシカに影響を与えたと言われる(事実関係は知らない)世界観、巨大な植物に支配された文明滅亡後の地球の光景は素晴らしい。この美しい世界と自分が同化してゆくというイメージは心地よい。人類補完計画もこういうものかもしれない。

 ある意味、グレンもアミガサタケも、単なる添え物にすぎない。

 ただ、これは明記しておきたいのだが、西田さんは諦観や厭世観で語っているのではない。それは、以下に引用する文章にも表れている。

 

しかし、どのような形で死のうが生きようが、宇宙の一部であることは変わりないし、私を構成しているものたちは、どっちにしろ、世界が消滅するまでこの世界に存在し続けていることに気付く。

 

 ちっぽけな自分、というのではなくて、世界と繋がっている自分を感じられることが良いのだな。

 そういうのは、僕もよくわかる。

 

 やがて緩やかに滅んでゆくことになる、地球に残った人類の子孫たち。その美しい光景に魅せらているように読める。滅びの美学とでもいうか、デカダンスと言うべきか。

 なるほど。確かに西田さんの好みかもしれないな。

 そうやって読むと、グレンなどどうでも良いのかもしれない。そこで滅んでゆく人類の、ささやかな残滓にすぎないとも言える。

 もののあはれ、なのかもしれないな。

 

宇宙が終わるまで私だったものはあり続ける。結果はどうあれ、過程の美しさが重要なのだ。ヒトだもの、美意識は高い。さて、もう一度、地球の長い午後を味わおうか。

 

 

 

 

※1 「融ける」「溶ける」の二つの表記があるが、使い分けられているのどうか、ちょっとわかりにくい。