『 にゅうもん!』cakes版 第三回『接続された女』 | 高い城のCharlotteBlue

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書評家アイドル 西田藍さんの、書評を紹介してゆきます。
基本的スタンスとして、書評でとりあげている作品は読んだことがあるとしています。
ネタバレを気にする方はご注意ください。

 今回は、『にゅうもん! 西田藍の海外SF再入門』のcakes版の第三回、2015年5月21日公開に公開された、ジェイムス・ティプトリー・ジュニア『接続された女』についての、西田さんの書評を読み解いていきたい。

 

 ついに来たか、という感じだ。ティプトリーだ。しかも『接続された女』だ。

 ジェイムス・ティプトリー・ジュニア、本名をアリス・シェルドン。意図的に男性のふりをして執筆活動を開始した女性作家。女性として執筆したならば、正当な評価は得られない、と考えたからだ。女性であることを明かした時には大変な騒ぎになったとか。さらに、最後にはアルツハイマーの進行した夫を(事前の取り決めに従って)ショットガンで撃ち殺し、自らも命を絶ったという、すごい経歴の持ち主だ。

 

 その作品の中でも特に名高い『接続された女』は、最悪レベルの醜女が、絶望からした自殺未遂の後始末として、脳を結線して紛い物の美少女の体に意識を移され、虚構のアイドルとしてて生まれ変わり……という話。

 

 フェミニズムでもルッキズムでもアイドル論でも、いかようにも語れるこの話を、西田さんが評論する!

 実は僕はcakes版の存在を後から知って、あわてて見に行ったのだけれど、その中にこの『接続された女』とアーシュラ・K・ル・グィンの『闇の左手』があるのを見て震えた。

 これは心して読まねばならない。

 

 ティプトリーの正体が知られた、いわゆるティプトリー・ショックの前にロバート・シルヴァーバーグの寄せたコメントが、この短編集の序文になっているんだけど、西田さんはまずそれに言及する。

 シルヴァーバーグは、ヘミングウェイ的な小説は男性しか無理だし、ジェイン・オースティンっぽいのも女性にしか書けない。だからティプトリーは男性で間違いない、と宣言しているので、この序文はなかなかに興味深い。ただティプトリーの様々な作品に言及しているので、ある程度ティプトリーを読んだことがないと、あまり面白くはないかもしれないけれど。

 

 僕はジェンダーなんぞくそくらえと思っているのだが、確かに『老人と海』みたいなものを女性が、『高慢と偏見』みたいなのを男性が書く、というのはイメージしにくい。いや、そのあたりは既に作家の性別のみならずイメージまでもった上で読んだからという気はしないでもない。

 ティプトリーだって、女性作家と知った上での初読だったからな。

 しかし、山崎豊子とか宮部みゆきとか小川洋子とかの作品を読んで、男性作家の書くのとは若干違う、異質なものを感じるのは僕の先入観なのだろうか。だとすると、僕の意識の中にも旧弊なジェンダー観は根をはりめぐらせていて、それなしには物を見られないようになっているのかもしれない。

 僕のことなど、どうでも良いのではあるけれど、この後の西田さんの自己分析と関わってくるので、ご容赦いただきたい。

 

 西田さんは、ブログの記事を基に、趣味が男性的だと言われたことがあると言う。

 このあたりの文章は全文引用したいぐらい興味深いのだけれど、文章から苛立ちというか不快感がにじみ出ていて、西田さんが怒っているのがありありとわかるので、さすがにそういう姿を殊更に強調するのは気がひける。

 こんなブログを書いていて何を今さら、と言われるかもしれないが、この怒りは世間に向かって表明する主張、というものではないからなあ。西田さん自身は、署名入りの記事で書いたことについて色々言われるのは当然だ、ぐらいのことは言われるだろうけど。

 

 一度、冒頭に戻る。ティプトリーが女性だと知った時、ふーん、としか思わなかったという西田さんは、以下のように続ける。

 

なんで昔はそんなごちゃごちゃ色々あったんだろう、と思う。ふふふ。

 

 この「ふふふ」。笑ってはいるんだろうが、そうではない。全く同じ表現が以前にもあった。『夏への扉』の回だ。

 

善人が純粋無垢な女の子と結ばれる話って、今もインターネットにたくさん転がっているような……ふふふ。

 

 端的に言い表せば、「意地の悪い笑み」というところだろう。もっと言えば、ちょっと馬鹿にされているという感じか。SNSでの西田さんなら「なんか笑っちゃう」と言うくらいの感じか。そういう時の西田さんは、だいたいムカついているのだけれど。

 

 やっぱり少し引用しよう。西田さんが男性的趣味と間違われたことについて、こんなふうに書いている。

 

かわいい絵が好き、という女の子っぽい趣味(差別的表現!)でだってそうなのだもん、ふしぎよね☆

 

 不思議を「ふしぎ」と書く、語尾に星印をつける、というあたりに、その心情が見てとれる。

 

 西田さんがここに挙げているのは、吾妻ひでお、『くりいむれもん』、ゆうきまさみのエッセイの中の『アダルトアニメの射程距離』という記事について書いたもの、だと言う。

 若い女性がアダルト的なものに興味があると言うと、ニヤニヤするおじさんたちが出てくるのは容易に想像がつくが、それでなくとも、その趣味が男性的というのも視野狭窄が過ぎる。

 このあたり、2014年に西田さんがサイゾーに連載していた、制服に関するコラムにヒントになることが書いてあった。そのコラムについても書くつもりだが、「性的アイコンとしての女子高生、制服というイメージが強かったが、女子高生自身がある種の虚構として楽しんで、自分のものにするようになった」というような意見を述べている。

 つまり女性が「かわいい」としてそれを肯定する時、意外とその背景や出自には無関係に楽しんでいたりするものであるのに、すぐそういう方向に絡めた目で見られるという、硬直した思考に憤っているように見える。いつの間にか身に着けたジェンダー的視点は無自覚に相手を傷つける。

 まあ、えらそうに書いているが、僕も西田さんを通じて蒙を啓かれたところは多い。

 実は、先ほどのシルヴァーバーグの序文には、追記として、そういう予想外の事実に直面した時の姿勢について、きわめて真摯に語られているのだ。それゆえの文章だろう。

 西田さんはこのコラムでは、きつめの言葉を使っていないけれど、なかなか尖った語り口だと思う。

 

 おっと、まだ本題である『接続された女』についての文章に、たどり着いていない。

 それでも既に、今回の記事と同じぐらいの文章量は書いてしまっている。まあ、いつものことだけど。

 

 いよいよ『接続された女』だ。

 こんな言葉から始まる。

 

ひどい醜女が自殺未遂したら科学の力で美少女に転生!?

という、あらすじだけ見ると少し美味しい話かもしれないが、内容はまったく美味しさを感じられない未来のお話。

 

 この言葉、裏側にはルッキズムに関する西田さんの様々な思いがあるだろうと、僕は勝手に想像してしまうのだけど、この記事の中ではそこに対する言及は控えめなので、違う方角から分析してみたい。※

 ルッキズム的に最底辺から、一気に頂点に生まれ変わった主人公、P・バークの使命は、広告の禁じられたこの世界で、様々な製品を使って見せることで文字通りの広告塔になること。今でいうところの、インフルエンサー・マーケティングというヤツ。

 

 現実にもそういうことはもちろんあって、西田さんも(ほぼ市販品を使っているという)モーニング娘。'14の衣装を買い揃えたという自身の話を、やや自虐的に披露する。

 自虐的、というか、この文章全体にやや露悪的にしようという意図を感じるのだが、たぶんそれは次のことを言いたいがためだ。

 

さて、P・バークの意識がデルフィに溶け、彼女がP・バークであったことを忘れかけたころ、彼女は恋をする。それは美しい恋愛であったはずだが、その恋の相手も、なかなか結局大衆的で、いや、こういう評価は意地悪かもね、相手への幻想のない恋愛なんてそっちのほうが珍しいしね、でもーー

 

 キーワードは「大衆的」だ。有名人の愛用品(とされるもの)を、ありがたがって買いあさる。アイドルの衣装(とされるもの)を嬉々として買い揃える。日常性に飽き飽きして、特別な物語に自分を重ね合わせる人々。

 この「大衆的」という言葉、最近はあんまり言わない言葉のように思う。今はむしろ「大衆的なので嫌い」みたいなスノッブなことを言えば叩かれる時代。小市民的な幸せの追及は、むしろ共感されやすいものになっているように思う。

 そこであえて西田さんが使う「大衆的」という、若干の蔑みを含んだ表現。

 

 P・バークは最悪レベルの醜女、と僕は書いた。

 どんなレベルかというのが物語の冒頭に書かれているのだが、それはそれはひどいものだ。彼女の醜さが、ではない。それに対する世間の対応がだ。十二歳の時、ヤク中の集団にレイプされたのでピルをもらいに薬局に行ったら、顔を見て冗談だろうと爆笑されたとか、下司なことこのうえなし。そりゃあ絶望もするだろう。

 だから彼女は世間を憎んでいたのではないか。

 その憎むべき世間が、美少女に生まれ変わった途端に手のひらをかえしたとしたらどうか。

 世間の奴らなんて下らねえな、と思わないわけがない。その感情が「大衆的」という言葉に込められているような気がする。いや、それならむしろマイルドですらある。

 いや、これは僕の勝手な解釈だけど。

 作中のP・バークは、どちらかと言うと、何も知らずおどおどとしているように見える。それが自己評価の異常な低さに見えて切ないのだが。

 

 西田さんは、webちくまで笙野頼子作品について語った時に、「私には媚びるくせにその目の前で平気で他の女を迫害する男たち」が憎い、というようなことを書いている。そんな西田さんに、このP・バークのことがどう見えたか。

 

 でも、P・バークは恋をする。イケメンだが大衆的な男。恵まれて育った、青臭い坊や。

 僕としては、そんなのに惚れるなよ、と言いたくなるのだが、西田さんは優しいので、というか既に彼女と自己を重ね合わせているので、その気持ちに理解を示す。P・バークは確かに一度絶望した。だが、美少女デルフィに生まれ変わることで状況が一変した。希望をもってしまうのも、無理からぬことなのかもしれない。

 

相手への幻想のない恋愛なんてそっちのほうが珍しいしね、でもーー

 

 これは、どっちに向かって言った言葉だろうか。

 いずれにせよ、P・バークの恋は破れる。まあ、必然だ。お坊ちゃんの甘い考えで、愛しの美少女が幽閉されているはずの部屋に乗り込んでみたら、そこにいるのは全身に電極をつながれたゴーレムのような醜女。それが自分の名前を叫びながら駆け寄ってきたので、思わず突き飛ばしてしまう。

 体に繋がれた色んなケーブルが千切れて、P・バークは死ぬ。

 胸くそ悪い話だ。P・バークも愛など信じなければ良かったものを、と僕なら言うところだが、西田さんは彼を擁護する。

 

恋に生きる思い込みの激しい若い男を非難するのは容易いけれど、じゃあ私ならどうするんだって言ったらまあイイコちゃんな行動ができるかも怪しいわけで。身近な話題だと、ネット恋愛に嵌ってさあオフ会してみたらどうするって話で、友達に相談されたら、まあ仕方ないね、次行こ、なんて感じで。

 

 またも露悪的な文章だ。西田さんはP・バークに自分を重ねてはいるけれど、その自分すら「大衆的」なのだと考えているのだろう。

 なるほど。僕の意見は、自分は無関係だと第三者の高みから物を言うようなものだったかもしれない。少し反省。

 とはいえ、やはり西田さんはこの「大衆的」な世界に、げんなりしているようではある。

 

金持ちで育ちよくて革命だって盛り上がってる青い男はヤバイ、ヒロインは不幸になる、という定番パターンがこの超絶かっこいいサイバーパンクの先駆的作品でも起こりうるのだ! かわいそうに! という見方をすれば切なさが和らぐかもしれない。はあ。

 

 結局またこのパターンかよ、という声が聞こえてくるようではある。先鋭的な世界観、テクノロジーで容姿すらどうにでもなる。冷笑的な語り口。そんな世界なのに、やっぱり人間は人間臭くて、「大衆的」で。

 この「かわいそうに」という言葉にも、うんざりしているのだと思う。

 もっとずっと後になってからだが、『にゅうもん!』の第十二回『冷たい方程式』について書いた時に、西田さんは「悲劇が悲劇であるための要素、大事なのは"可哀想さ"なんだろーな」と書いている。

 美しいデルフィはかわいそうなのか、いや、デルフィは別の「中の人」を得て再び世に現れるだろう。では醜いP・バーグはかわいそうか。デルフィになる前の彼女は、誰にもそう思ってもらえなかったのに?

 

 人は美しいものを愛する。それは自然なことだ。だとすると、美しい虚構の方を、醜い現実よりも愛することも、間違ってはいないのか?

 西田さんは、「私だってわかっちゃいないのだ」としつつ、もう一度シルヴァーバーグの序文、それもティプトリーが女性だと知った後に書かれた追記に言及する。なるほど。デルフィとP・バーク。男性作家ティプトリーとアリス・シェルドン。思いもしない現実を目の当たりにした時、我々はどのように振る舞うのか。

 作品を通して現実を見る目。こうやって行き着くと、新しく地平が開けたような気持ちになれる。

 

(ここで、巻頭にある、ロバート・シルヴァーバーグの「追記」をまた読むと、ぐっとくるものがある。予想もしない本質に触れたとき、その事実を受容できるのか、否か。虚実をあらかじめ見分ける能力よりも、重要なのかもしれない)

 

 その文章を一部引用しておこう。

 

そして、わたしはーーまたまたーーもうひとつのことをまなんだ。まったく、なんべん教えられたらわかるのだろうーー"物事が外観通りであることはめったにない"のだ。アリス・シェルドンよ、これらの面でわたしを教育してくれたあなたに、ここで感謝をささげたい。そしてそのほかのもっとたくさんのことにも。

 

 この真摯な態度は見習いたい。

 そして僕は、西田藍さんに対して、ロバート・シルヴァーバーグと全く同じことを思っているのだ。

 

 

※ルッキズムに関しては、西田評論研究として、改めて考察したい。