朝、早起きして、Sakuraさん×風弥さんのドラムセミナーのアーカイブを見てました。



音楽は私にとって感情の回復の場です。

仕事の人間関係ですり減った心を修復したり、社会というバトルフィールドでの戦闘モードを解除して、裸になれる場所です。


と同時に、音楽は「今」を生きることそのものであり、ライブにおける1回性のパフォーマンスに触れることで、自分の身体を「今」に置くことができます。


しかし、もう少し丁寧にこの音楽における「今」を考えてみるとき、音楽の「今」とは過去と未来の両サイドにリーチしているものではないでしょうか。

だって、すぐ前の音によって「今」の音は意味を与えられるし(「今」の音、たったひとつっきりの音では意味を持たないですよね)、それに「今」の音はこの後に来る音を人に予期させるというか、「今」の音は未来から前借りされてここにあると言っても過言じゃないでしょう。

つまり、音楽の「今」っていうのは、ほんの一瞬でありながら、そこにはある程度の時間的な幅があって、過去と未来の両サイドにリーチしている状況なんですよね。

その「今」が数珠つなぎになって、ひと続きの連鎖した音楽として認識できるという。


でね、ここでドラムの話に持っていきますと、ドラムっていうのは、フレーズを切断しながら接着させることを同時にやってのけていると思われます。

切断面がそのまま接着面に早変わりするイメージです。

切断と接続の分かち難さこそ、「歌うようなドラム=おしゃべりするようなドラム」の本質にあるのではないでしょうか。

ドラムの一打とは、目に見えない時間を切断して過去を作りつつ接続して未来へと繋げるものであり、まさに「今」に存在する楽器としての特徴が大きいように思われます。