忘れられることは怖い | 過去の虚無と対峙して

過去の虚無と対峙して

恵まれているようで、恵まれていなかったことに気づいた時、私の心は崩壊した。
(おねえちゃんだから、平気だよ)と母親を喜ばせ、本当は甘えたかった気持ちを隠してきた。
絶賛加筆修正中。テーマで絞ってお読みください。

 そんな私の通っていた小学校には伝統があった。毎年運動会の入場行進曲を6年生が生演奏するというものだ。校歌をマーチにアレンジした素敵な曲で、使用楽器は小学校に揃っているもの。リコーダーやアコーディオン、大太鼓、小太鼓、手で持つタイプの鉄琴などだ。

 昔から音楽が好きだった私は、1年生の運動会でこの曲を聞いて、覚えてしまった。本来3年生で習うソプラノリコーダー。しかし、2年生の時にいとこがいらないリコーダーをくれたので、すぐにその曲を練習し、吹けるようになった。

 

 実際に行進曲を練習し始めるのは5年生になってからなので、3年生の音楽の時間に得意気に吹く私を見て、生意気だと思ったクラスメイトもいただろう。

「すごいね!」と言ってくれる友達は仲良くしてくれていた子たち。横目で睨むクラスメイトのことは私も苦手だった。私はどこまでも、恥ずかしがり屋の目立ちたがりなのだ。

 

 5年生になり、いよいよ行進曲のパート分けの日。私が音楽好きだということは担任の先生も知っていて、どうしても決まらない小太鼓に私を指名してくれた。

 私がそういう、小太鼓だとか、鉄琴だとか、目立つ楽器に立候補しなかった理由は、6年生になった頃にはもう私はこの学校にいないことがわかっていたからだ。父の辞令がまだだったため、両親に口止めされていて、クラスのみんなにも、担任にも言えない状態で、リコーダー4に入っていたのだ。

メインのメロディーが多いリコーダー1でなく、リコーダー4だったのは、1人抜けても支障がないだろうと考えてのことだった。小太鼓に指名してくれた担任と、賛成してくれたクラスメイトに、転校することを話してしまった。ダメと言われていたけれど、仕方なかったし、帰ってからみんなに伝えてしまったことを親に伝えても、理由を言ったら怒られはしなかった。

普通、私の周りの転勤族というのは2~3年で出たり入ったりするものなので、幼いころから今までずっと一緒に成長してきた私の家が転勤族だと知っている人などほとんどおらず、先生を含めた全員が驚いていた。

 

 もうひとつ、冷静になって考えてみてほしい転校生事情が、修学旅行と卒業アルバムだ。ずっと仲良くやってきた友達と一緒に行けない修学旅行や、一緒に写ることができない卒業アルバム。

 

 私はいつか、忘れられてしまう──

 

 私はそれが怖かった。けれど、仕方なかった。

 

『人間は二度死ぬ。一度目は肉体的に死を迎えた時、二度目は忘れられた時』とよく言うけれど、私の場合は肉体的な死を迎えるよりも先に、二度目の死を迎えることは目に見えている。

「はじめまして」と挨拶した転校先の学校で、1カ月後には友達も少ない中で無理して作った笑顔と少し多めのお小遣いを持参して修学旅行に行き、卒業アルバムに載る。その卒業アルバムには1年生の『にゅうがくおめでとう』のページもあり、その辺に私は存在しておらず、修学旅行のページにだけ存在している転校生なのだ。そのアルバムに写っている1年生の子たちの記憶には、1年生の私は存在していないのである。ちょっとしたホラーだ。

 

 同窓会なんかも、1年しかいなかったクラスの集まりに顔なんか出しにくく、5年間一緒に笑った仲間の同窓会に行きたいところだが、卒業生じゃないので卒業名簿にも載っておらず、呼ばれることはなかった。嫌われていただけかもしれないけれど。

 

 これと同じことが、中学校でも起こる。

 

 私は6年生の1年間で仲良くしてくれた友達と一緒の中学に入学できた。しかし、金持ちの両親は市内の住宅街に大きな家を建てたのだ。

 それまでの借家はお風呂が洗い場と浴槽含めて畳1畳分しかない狭さだったので、家が新築で大きくなったことはとても嬉しかったが、また転校だ。中学1年生の3学期から、私はマンモス校へ転校した。

 

 中学でも、卒業アルバムに載るのは転校先の方。小学校も中学校も、どっちの学校に所属しているのか、私の居場所はどこなのか、今でもわからなくなる。この現象は、社会に出ても仕事を転々としていた身としては同じ経験をすることになるけれど、今はその話は置いておこう。

 

 引っ越しは北海道内なので父の車で移動した。家を出発するとき、仲の良かった友だちが数人、見送りにきてくれたのだが、この時、「私は多くの人に嫌われていたのだな」と確信した。お別れの色紙をもらったのだが、左上にちょこっと仲の良かった友達が書いてくれているだけで、あとは白紙だったのだ。班ごとに色紙を作ってくれたらしく、そんな白紙に近い色紙を6冊も受け取った。表紙は、誰かが描いた私の似顔絵。癖っ毛を束ねていて、メガネをかけて、笑っている。すぐにでも捨てられたらよかったのだが、書いてくれた友達もいたので、捨てるに捨てられず、大人になるまで保管していた。

 

 今となってはこの家で過ごした日々など、長い人生のほんの10年なのだが、子どもの頃の1年はアホみたいに長いもので、とっても思い入れのある土地と家だった。

 

 さようなら、私の明るい人生──