生まれた時のこと | 過去の虚無と対峙して

過去の虚無と対峙して

恵まれているようで、恵まれていなかったことに気づいた時、私の心は崩壊した。
(おねえちゃんだから、平気だよ)と母親を喜ばせ、本当は甘えたかった気持ちを隠してきた。
絶賛加筆修正中。テーマで絞ってお読みください。

普通だと思っていた子どもの頃の話──

活発だった頃の話──

 

 北海道釧路市にて、虹の見える水曜日に私はこの世の空気を吸った。予定日を1ヶ月も過ぎていた。きっと、母のお腹の中が気持ちよかったのだろう。

 何もしないで生きていたい──

 その考えは今も変わらず、当時から芽生えていたに違いない。

 そろそろ出さないといけないということで、予定日から1カ月後に母はお腹を切り、帝王切開で無理やり出されたのが、私だ。今後どんな人生を歩むかなんてまだ決まっていない、ブサイクな赤ん坊。今は生まれた時から可愛い赤ちゃんがたくさんいるが、昔はそうでもなかったように思う。日本人の赤ちゃんはみんな猿のような顔で、目は細くて腫れぼったく、鼻もぺしゃんこで泣くことしか知らない、可愛くもない赤ちゃん。でも、両親を中心に、周りの大人はみんな、そんな私を見て「可愛い、可愛い」と口を揃えて言った。

 バブル期の我が家には結構お金があり、私は家族3人で何不自由なく暮らしていた。5歳からバレエを習い始め、7歳でピアノ、11歳で英語塾に通った。すべて自分からやりたいと申し出て習わせてもらったものだ。私はなにげにお嬢だったのだ。5歳から始めたバレエは今でもやりたいほど大好きで、子どものころは「音楽があればそこに踊りもある」という感覚で、踊ることがとにかく好きだった。

 幼少期の私はとてもおとなしくて親の言うことをきく、いわゆる『いいこ』だった。
親が「恥ずかしいからやめなさい」と言ったから、デパートで欲しいものを買ってもらえなくても地べたで大の字になって大声で泣き叫ぶことはしなかったし、「泣くことは恥ずかしい」と教えられたので、人前で涙を流すことはあまりなかった。今、映画を見て感動しても涙を流すことができないのはこの時の影響だろうと思う。人はストレスが溜まったとき、泣くとスッキリするものなのに、それができない私は今でもたまに苦しむことがある。

 「泣くことは恥ずかしい」「人前では愛想よくしなさい」──
一見厳しい躾のようだが、そんな両親はいつも私の味方をしてくれた。友達と喧嘩をしても私の味方をしてくれた。父は仕事で家を空けることが多かったので、大半は母が私の愚痴を聞いてくれていたのだが、母はその友達の悪口を一緒に言うだけで、その友達のところに電話をしたりなんかはしなかった。私の前では私の味方、相手の前では相手の味方。
「うちの子がこめんなさいね」で、なんでも丸く収めたい人種なのだ。

 その躾は、時にしっかりぶつかり合うべき場所でもぶつかることを避けて通るように、少し間違った方向に向かっていたのである。家族間でもきちんと話し合わなかければいけない場面で、相手を探るようにそっと接し、「相手はこう言っていた」と人づてに聞き、「相手が怒っている」「怖い」「次に顔を合わせたら怒られるのではないか」という恐怖心だけが膨らむようになった。私の家の場合は、「パパがこう言ってたよ」と母から聞くことが多かったので、私は幼い頃から父のことが怖かった。声を荒げて怒られたことはなかったのに、怖いという母の言葉を刷り込まれて、父は怖いという洗脳を浴びていたのだと思う。