2024年6月4日

 

“日本のクラシック音楽は歪んでいる”
12の批判的考察

(森本恭正) 光文社新書 2024年1月

 

 

長くなるので2回に分けます。

 

 いや、これはなかなか面白かった。ふむふむなるほどと膝を打ちながら読んだり、いやそれは違うぞと首を捻りながら考えたり、飽きずに一気に読むことができた。

(赤字は本書からの引用部分。ただし一字一句完璧にコピーしたものではなく、省略や順序の変更等あります)
 

 

 日本の音楽評論の泰斗である吉田秀和をボロクソにけなしている。これはある意味痛快であった。音楽を演奏するわけでもなく、曲を作るわけでもない人物が、評論といえばかっこいいがそれって感想だろう、それで文化勲章かい、とかねがね思っていたからだ。

 

曰く

 「外でさんざん遊びほうけた末、泣かされてきた子が、家の敷居をまたぐなり『おかあ』と強く叫んで、急に流れ出してきた涙と一緒に後の『さん』という音を呑みこんでしまったかのようだ。」
 これは、日本の演歌に添えられたことばではない。モーツァルト作曲『戴冠ミサ曲』(K317)の吉田秀和による批評文である(吉田秀和著『モーツァルト その音楽と生涯』)。同曲の冒頭kyrieの、強音から弱音に変わる部分に関して、吉田が述べた感想だ。
 最近この一文を目にし、しばし茫然と天を仰いでしまった。そして唐突に、数十年前、ウィーンで開かれた立食パーティで、寿司の屋台に並んだヨーロッパ人たちが、一流のすし職人が握った寿司に醤油をどぼどぼとかけて、満足げに食べていた光景を思い出した。
 吉田がKyrieを「おかあさん」という日本語で叫ぶ男の子の姿に仮託して感得した姿は、モーツァルトという超一流の作曲家が書いた作品に醤油をどぼどぼとかけて、美味しそうに頬張っているかのように今の私には映る。
 いくら荒唐無稽な妄想が得意とはいえ、18世紀末にオーストリアで書かれた音楽を、昭和初期とおぼしき日本の日常に置き換えて語るのは、やはり筋違いだ。

 

 膨大な数のクラシック音楽を聴き、その経験を基にあたかもクラシック音楽を深く理解しているかのような錯覚に陥り、その後評論を始めた音楽評論家は多い、というよりほとんどがその類ではないだろうか。

 彼らが、モーツァルトのピアノソナタは、とかベートーヴェンのカルテットは、などと言いながら作品について言及するときは大概、楽譜の存在は希薄だ。したがって彼らの認識にあるのは、誰かが演奏した、つまり優秀な演奏家の解釈を通した、モーツァルトでありベートーヴェンなのだ。
 そうした評論家の書く文章には浅薄さがつきまとう。譜面を読んでいないか、読んだとしても正確に読めていないので、独りよがりな、誤謬に満ちた「感想」が頻発するのだ。
 
 一方、譜面を作曲家からの唯一の伝達手段として、音楽を読んでいるとどうなるのだろうか。
 まず、歴史のフィルターを潜り抜けてきた作曲家の作品に駄作はないことに気がつく。したがって、作品に対する好き嫌いがなくなる。ブラームスはお好き?などという発想がそもそも出なくなる。好き嫌いの感情をさし挟む余地などないからだ。ブラームス?彼は素晴らしいとしか言えないのだ。

 演奏家の場合も同様で、数十年の歴史のフィルターを潜り抜けてきた奏者の演奏に、つけられる文句は何もない。吉田のように、「周知のようにシゲティのヴァイオリンの音はたいして美しくない」などと言えるのは、私に言わせれば、彼がアマチュアの域を一歩も出ていないことの証である。

 全集本にも、和声進行の異なる「月光ソナタ」と「第九」の主題動機が同じだとか、「運命」と「交響曲第四番」のそれぞれ一楽章冒頭部分の発想が同じだとか、疑問の余地が多すぎる、失笑を買うような記述が至るところに掲載されている。

 

 

 一読、吉田の表現は比喩としてぎりぎり許容範囲内かなとも思う。ただし、それはアマチュアのレベルだと言いたいのだろう。

 上の文章中で、譜面を読み込む必要性を説いている一方、

 アマチュア音楽愛好家にとっては、そのようなことを気にかける必要は皆無である。名曲の名演奏を様々に聴き比べるのは楽しい。そして、そのように聴いていると、きっと好きな作曲家、嫌いな作曲家、好きな演奏家、嫌いな演奏家が出てくるだろう。そうやって愛好家同士言いたいことを言い合い、それが高じて、レトリックを駆使した文章が発表できれば、さらに愉快である。

 とはっきり書いている。すなわち日本の大多数の音楽評論家のしていることは、アマチュアレベルだということである。

 

 これを見て、音楽誌に寄稿している、さるプロの評論家の数か月前のブログにこんな一文があったことを思い出した。

 

 チェコ・フィルハーモニー管弦楽団で聴くドヴォルザークの交響曲は味わい深い。
 チェコのプラハには20年ほど前数日間滞在したことがあり、モーツァルトが「歌劇《ドン・ジョヴァンニ》」を自ら初演したエステート劇場でその《ドン・ジョヴァンニ》を観たことも良い思い出だ。
 今日のチェコ・フィルの音はそうしたプラハの街並みや、プラハ城やカレル橋の少しくすんだ色など、晩秋のプラハの光景や街の空気を思い出させた。

 

 これはいかにド素人の私でも笑っちゃいましたね。数日間プラハに滞在したくらいでチェコの何がわかるというのか。ましてプラハの街並みや、プラハ城やカレル橋のくすんだ色が、交響曲にどのように現れるというのだろう。例えば20年前に京都に旅行したことがある外国人が、京都市交響楽団のコンサートに行って、「西洋音楽でありながら、その奥に古都にふさわしい雅な情緒を醸し出し、一方でクライマックスにあっては、渡月橋から望む嵐山の紅葉もかくやという華やかさを表現している」なんて書いたら大笑いだろう。

 

 この同じ人物は、別の日(2024年1月)にプラハ交響楽団のコンサートでも明らかに誤った記述をしていたので、さすがに無視するわけにいかずご指摘申し上げたことがある。

 

 前回の来日(筆者註;2016年)では気づかなかったが(まだ入団していなかったのか)、このオーケストラには個性的な奏者が二人いる。一人はホルン首席ズザナ・ルゾンコヴァZuzana Rzounkova。他の楽員が燕尾服を着ている中で、彼女だけはニット帽にカジユアルな黒のシャツとパンツ姿。演奏はとても安定しておりうまい。ホルン隊をきっちりとまとめていた。チェコにはホルンの伝統があり(ラデク・バボラークもチェコ生まれ)、プラハ響の二人の日本人奏者も対談でそう話している。
【団員へインタビュー!】2024年1月来日・プラハ交響楽団 | クラシック音楽事務所ジャパン・アーツクラシック音楽事務所ジャパン・アーツ (japanarts.co.jp)

 もう一人はティンパニのLubor Krása。とにかく明るい。始終踊りながらティンパニを叩いているようにも見える。燕尾服の袖をまくり上げ、ノリノリで叩く姿に笑いを誘われる。こんなに明るいティンパニストは見たことがない。

 

 オリジナルの文章では、ホルン首席のズザナ・ルゾンコヴァを「彼」と表記していたので、ズザナさんは女性ですと指摘した。するとしばらく反応がなかったところ、突然私に連絡なしに「彼女」に変更したうえに、私のコメントを勝手に削除してしまったのである。

 (まだ入団していなかったのか)という部分もこの方の知識不足で、このホルンのズザナさんもティンパニのルボルさんも少なくとも10年以上は在籍している。この方がここで書いている2016年の来日の際は、東京公演を前にズザナは一足早くチェコに帰国しており、この人が見なかっただけの話だ。ルボルは「踊るティンパニスト」としてかねて知られており、前回の公演でも活躍していたことをはっきり覚えているので、本人言うとおり単に気がつかなかったか忘れていただけだろう。これもその旨ご指摘申し上げたが、素人の私に不勉強をそしられるのは恥と思ったか、黙って私のコメントを削除するばかりであった。

 

 ズザナは確かに一見男性に見える。そりゃそうだ、彼女はLGBTQのTだから。ただし、スラヴ語系の言語に一定の知識があればすぐわかることなのだが(音楽ではチャイコフスキーを始めとしてスラヴ系の大音楽家が多数いる)、ルゾンコヴァという名前に男性はあり得ない。男性ならルゾンカという姓になる。

 

 だいたい「彼」を「彼女」に変えただけでは後の文とのつながりがなくなるだろう。

 他の楽員が燕尾服を着ている中で、彼女だけはニット帽にカジユアルな黒のシャツとパンツ姿。

 燕尾服を着ているのは男性だけだよ。

 

 というわけで、コンサート情報としては価値がゼロではないのでそのままにしているが、内容には全く信頼がおけないことがよくわかったので、以降中身は読まないことにしている。この御仁は月に20回以上は演奏会に出かけ、精力的に書いていらっしゃる。森本氏指摘する通り、膨大な数のクラシック音楽を聴き、その経験を基にあたかもクラシック音楽を深く理解しているかのような錯覚に陥っているのでしょう。どうやらそれを生業にしているらしいから、幸せなことだ。

 

 長々と引用したので2回に分けてもかなり長くなった。その2を書く必要があるかどうかわからない。期待している人もいないだろうからどうなることやら。