2024年4月8日

 

板倉鼎・須美子展(千葉市美術館)

 

 2年前にコレクション展で見た板倉鼎が、今度は企画展に登場。

 

 コレクション展の時は撮影OKだったのに、今回は制限あり。松戸市教育委員会所蔵作品に遠慮したか。

 

 

 前回も書いたが、板倉は留学先のパリで28歳の若さで客死。同じ年に次女・二三(ふみ)を生後1カ月で亡くしており、須美子と共に帰国した長女・一(かず、1927年生)も1930年(昭和5年)に松戸の板倉家で病死した。

 妻の須美子はハワイで絵を始めた後、在巴里日本人美術家展などに作品を出品、藤田嗣治らから高く評価され、1928年と1929年のサロン・ドートンヌに連続入選するなど頭角を現す。帰国後に長女を亡くした後は鎌倉稲村ヶ崎の実家に戻り、失意の日々を送るが、再起を期し有島生馬に絵画指導を受ける。だが1934年(昭和9年)5月に肺結核で死去、享年25。

 

 夫婦の相次ぐあまりの若い死に愕然とするばかりである。

 

 夭折のゆえに今まであまり評価されてこなかったが、近年改めて見直しされている由。

 

 何度も書いたことながら、芸術は作品だけで評価されるべきだということは頭ではわかっている。それでもなお、作家の人生に思いを致さないわけには参らぬ。これから先どれだけの将来が待っているか、どう切り開いていくか、野心と情熱にあふれた世代で身罷らねばならなかった二人の心持を思うと、無為に過ごしてきたまま老境を迎えようとしている我が身が恥ずかしくてならない。

 

 

 

◆「雲と果実」1927年 松戸市教育委員会

 明らかに遠近法を逸脱した表現。キュビズムの影響と見る向きもある。

 

 冒頭に掲げた本展ポスターの絵は「休む赤衣の女」(1929年頃)(個人蔵 松戸市教育員会寄託)

モデルは須美子であり、「赤衣の女」は鼎がメインキャッチとして手掛けた画題である。

 

 ハワイを経てパリへ留学した後は明らかに画風が変化している。個人的には留学以降の絵が圧倒的に好ましい。

 

 

◆「垣根の前の少女」1927年 千葉市美術館

 前回、ひと目で釘付けになった作品。

 

◆「午後 ベル ホノルル12」(板倉須美子)

 アンリ・ルソーを思わせる趣。正式な美術教育を受けないまま絵を描いていたわけだから、まさに素朴派と言える。

 

◆「ベル ホノルル24」(板倉須美子)

 パリでサロン・ドートンヌで初入賞したころは、鼎よりもむしろ評価が高かったと言われる。

 

◆「黒椅子に倚る女」1928年 松戸市教育委員会

 左右の目がアンバランスに描かれているのはやはりキュビズムの影響であるという。

 

◆「ダリアと少女」1929年頃 松戸市教育委員会

 

 

 

 下の写真で、須美子が抱いているのが長女の一(かず)だとしたら、1927~28年ごろと思われ、鼎26~27歳、須美子19~20歳のころである。左の立っている女性は寄宿先のオーナーであると思われる。

 愛と希望にあふれた家族写真のはずが、この数年後には家族全員がこの世を去っている。

 

 鼎、須美子とも裕福な知識階級の生まれで、御覧の通りの美男美女である。

 

 

 

 2021年(令和3年)7月、鼎と須美子の油絵、水彩画、素描など575点(うち284点が松戸市教育委員会に、248点が千葉県立美術館に、33点が千葉市美術館に、10点が大川美術館に)それぞれ寄贈された。これらは2020年(令和2年)に111歳で死去した鼎の実妹・板倉弘子が保管し、寄贈は弘子の遺志による。

 

 早世した二人は評価の機会を逸したが、近年再評価されつつあるのは、板倉弘子が二人の作品を長く保管してきたことが大きく貢献している。

 

 なんとも切ない美術展でありました。