2023年12月23日


前回の続きです。

 

『興国と亡国ー保守主義とリベラリズム』かや書房 2023年11月

 鎌田老とは対照的に、論理的に筋道立てて展開する。冒頭書いた通り右派メディアと目されている媒体の記事を集めたものだから、ある意味読者層に合わせて書いたとも言える。

 

 ◆法政大学の山口二郎教授は、集団自衛権容認に反対するデモで「安倍!お前は人間じゃない。叩っ切ってやる!」と叫んだ。あるいはまた、安倍元総理が銃撃を受けて死亡した事件で快哉を叫んだと、堂々とメディアで発言した人物がいた。こういう人たちはいったいテロも容認されると考えているのだろうか。

 

 ◆朝日新聞は川柳を使って安倍批判、というより死者への冒瀆を堂々と開陳していた

 「疑惑あった 人が国葬 そんな国」

 「死してなお 税金使う 述べ送り」

 「忖度は どこまで続く あの世まで」

 「ああ怖い こうして歴史は 作られる」

 いかに朝日の読者でも、これを読んで愉快に思う人が多いとは思いたくない。

 

 この他にもいくつか興味を覚えた論説を以下に抜粋(趣旨の抜粋かつ私の個人的な感想も含まれているので原文のままではない)。

 

 ◆表現の自由に関する考察

 表現の自由が無制限に認められるべきだという考えは当然ある。ミルの『自由論』によれば、他者の自由に制限を加えることができる根拠は、「危害原理」のみであるとする。「危害原理」とは、放置した場合に誰かが危害を被る場合にのみ、自由は制限されるとする考え方である。殺害予告は相手に危害を与えることを目的としているから認められないが、昭和天皇の写真を燃やしたり、ムハンマドを揶揄したりすることは否定されないことになる。

 

 さすがにこれは一般常識からは乖離している(何を言っても許されるというのは、人々の名誉を著しく傷つけることを容認することにつながる)から、「他者の人権を侵害するような表現は、表現の自由の濫用であり、許されない」(師岡康子『ヘイトスピーチとは何か』岩波新書)と考えるのが受け入れやすい。

 世界の各国ではヘイトスピーチに対する法規制が行われている。これは全面的な「表現の自由」を奪う規制である。それでもなお法規制が設けられているのは、放置しておけば、「表現の自由」の名の下に名誉が著しく傷つけられる人々を守ろうとするからである。表現の自由とて絶対的なものではない。

 

 さて右派論壇のお約束、「朝日新聞はなんと言っているか」。

 権力が安易に規制することは批判しながらも、表現の自由は無制限なものではないと説いている。表現の自由とは「人格を発展させ、互いに意見をかわすことによって、より良い民主社会を築くためにある。」のだそうだ。

 

 津田大介なる人物が芸術監督を務めた「愛知トリエンナーレ 表現の不自由展・その後」において、昭和天皇の顔写真に火をつけ、その灰をハイヒールで踏みにじるという「芸術作品」が展示された。その他物議をかもす展示品もあり、展示内容に対する抗議が殺到し、「表現の不自由展・その後」は中止に至った。

 朝日新聞はこれに対し、「人々が意見をぶつけ合い、社会をより良いものにしていく。その営みを支える「表現の自由」が大きく傷つけられた。」「一連の事態は、社会がまさに「不自由」で息苦しい状態になってきていることを、目に見える形で突きつけた。病理に向き合い、表現の自由を抑圧するような動きには異を唱え続ける。そうすることで同様の事態を繰り返さない力としたい。」と言う(2019年8月6日社説)。

 

 岩田氏の反論はこうである。

 「日本国の象徴であり、日本国の統合の象徴」と定められた天皇陛下の顔写真を燃やす作品を「芸術」だと言い張ることの方に病理を感じる。この作品なるものが「人格を発展させ」「より良い民主社会を築く」ためのものとはとうてい思えない。

 在日外国人に対する脅迫めいた言辞や侮蔑に対しては、表現の自由に値しないと説き、一方で我が国の象徴である天皇陛下や特攻隊に対する脅迫じみた行為や侮辱に対しては表現の自由の範囲内と説くのは、結局『朝日新聞』の「表現の自由」に関する基準は二重基準に他ならないのだ。

 

 またさらに言う。

 かつて一橋大学の大学祭で保守派の作家と目される百田尚樹氏の講演が、急遽中止に追い込まれた事件があった。私は百田氏の著作の熱心な愛読者というわけではないが、(略)作家の言論の自由が奪われることに対して、表現の自由を尊重するすべての人びとが立ち上がるべきであると感じた。しかし、この事件に関して「リベラル」、左派は沈黙を守った。

(略)「右派の自由は奪え、左派の自由は守れ」というテーゼが脳内で鳴り響いているのではないか。

 

 この、朝日新聞がダブルスタンダードをもてあそぶという指摘は右派論壇の常套句でありますね。私も激しく同意しますよ。

 東京オリンピック2020の公式スポンサーである一方で否定的論陣を張ったり、学歴社会を批判したかと思えば高校別大学合格者の特集を毎年大々的に繰り広げたり、ご都合主義の例はいくらでもある。

 営利企業なんだから別にかまいませんけどね。正義の味方ヅラさえしなければ。

 

 

 

◆憲法制定権

 小西豊治著『憲法「押しつけ」論の幻』(講談社現代新書)によれば、「日本国憲法はマッカーサーに押し付けられた憲法というのは正しくない。日本国憲法の核心部分は、憲法研究会が生み出した日本側のオリジナルな思想である。」のだそうだ。

 

 これに対し、岩田氏は「憲法制定権力」が誰の手にあったのかを無視している。ある国家がモンテスキューの三権分立を憲法に取り入れたからといって、それをフランス製とは言わないだろうと指摘する。

 

➀被占領期におけるマッカーサーの権限は『連合国最高司令官の権限に関するマッカーサー元帥への通達』(1945年9月6日 ミズーリ号船上での降伏文書調印の4日後)において以下の通り明記されている。

 『天皇および日本国政府の国家統治の権限は、連合国最高司令官としての貴官に従属する。(略)貴官の権限は最高であるから、貴官は、その範囲内に関しては日本側からのいかなる異論をも受け付けない。

 貴官は、実力の行使を含む貴官が必要と認めるような措置をとることによって、貴官の発した命令を強制することができる。』

 

 要は、日本の最高権力はマッカーサー元帥に属しており、日本に憲法制定権を含むあらゆる統治権はなかったということである。被占領国の憲法を占領側が制定するなどということは、現在の(あるいは当時でも)国際法に照らせば明らかに背理しているが、勝てば官軍でありますからね。

 

②日本側の憲法改正草案は一蹴され、GHQ案が提示された。(略)さらに重要なのは、松本草案が否定され、GHQ草案が日本に提示された際、この草案を飲まねば天皇の地位が危ういと、GHQが脅迫した点である。⇒これはちょっと怪しいらしい。岩田氏も『真実は闇の中』と書いている。

 

③GHQで検閲作業に従事していた甲斐弦の述懐。

 新憲法第21条を読むたびに私は苦笑を禁じ得ない。『検閲はこれをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。』

 何という白々しい言葉だろう。

 言論及び思想の自由を謳ったポツダム宣言にも違反し、GHQ自信の手に成る新憲法にも抵触するこのような検閲が、憲法公布後もなお数年間にわたって実践されていたのである」(甲斐弦『GHQ検閲官』(葦書房))

 

 GHQ、アメリカが日本国憲法の制定に関与したことに触れることももちろん検閲の対象であった。アメリカは何としてもこの憲法を日本人がつくった憲法であると錯覚させるために、徹底的な検閲を駆使していたというのが歴史の真実である。

 

 

 

 欧米白人の抜きがたい人種差別意識にも言及している。不愉快になるのでこれくらいに。