2022年3月5日

新装版「巴里に死す」 芹沢光治良 (勉誠出版 2019年6月)

 ほぼ50年ぶりの再読である。高校時代にこの人の作品をむさぼり読んだ。「人間の運命」全三部14巻(文庫本では全7巻で出ている)。さらにその続刊と位置付けられる「われに背くとも」「遠ざかった明日」。そして関連作品と言われる「愛と知と悲しみと」。

 文章そのものはきわめて平易で、小学生でもすらすらと読めるほどだ。行間にあふれる崇高なまでの知性と品格。こういう高潔な人格に憧れた。かなう夢ではなかったけれど。

 

 芹澤(*1)光治良はノーベル賞文学賞候補として評判が高かったが(*2)、1965年日本ペンクラブ会長に就任(1974年まで)、1969年にはノーベル賞推薦委員を委嘱されたとあっては、自らを推薦するわけにもいかなかったのだろう。受賞が実現しなかったのはまことに残念なことである。フランス留学中に肺結核に罹患、スイスで療養生活を送ったことが文学に生きるきっかけとなった。肺結核の既往症により兵役を免れ、結果として97歳近くまで天寿を全うし、しかも死の直前まで原稿執筆の生活を送っていた。

 幼少時に天理教に帰依した両親が全財産を教団に寄付し、恵まれた生活から一転して貧窮の境遇に陥ったが、神童と称されるほどの抜群の秀才ぶりを発揮し、篤志家の援助を受けて一高、東大を卒業、当時の高等文官試験に合格し農商務省に任官した。東京帝国大学時代は幼少期に養子縁組の話もあった石丸助三郎の邸宅(現在のガーデンテラス広尾)の離れに寄宿した由。農商務省任官後は、その石丸の友人であった愛知電気鉄道(現在の名古屋鉄道)の社長の二女と結婚、そのすぐ後に官職を辞しフランスへ留学する。7年間の留学の間、結核の病を得るも、スイスでの療養を経て帰国した後、改造社募集の懸賞創作に「ブルジョア」が一等入選し、以後作家の道を歩む。

 実弟の小山武夫は、中日新聞の論説委員を経て常務取締役、そして中日ドラゴンズの球団社長、オーナー。えっ、小山オーナーってよく覚えてるよ、芹澤光治良の弟さんだったのか、初めて知った。星野仙一入団のときの球団社長・オーナーじゃないか。

1983年 星野仙一 現役引退

1993年 芹澤光治良 死去(享年98)

2003年 小山武夫 死去(享年95) 同年、星野監督の阪神タイガース リーグ優勝

2013年 星野監督率いる東北楽天ゴールデンイーグルズ 球団初のリーグ優勝、日本シリーズ制覇

 10年毎にイベントがある、のは単なる偶然ですよ。

 ちなみに1943年は、ここで採り上げた「巴里に死す」が日本で刊行(中央公論社)された年で、1953年はパリで仏訳 ”J'irai mourir à Paris”『私はパリに行って死にましょう』(ロベール・ラフォン社 森有正訳、アルマン・ピエラール監修)が刊行された。

 

*1)ほとんどの資料の表記は「芹沢」であるが、沼津市に昭和38年(1963年)に建立された「風になる碑(いしぶみ)」の碑文は「幼かりし日 われ 父母にわかれ 貧しく この浜辺に立ちて 海の音 風の声をききて はるかなる とつくにを想えり 一九六三年 芹澤光治良」であり、本人は「芹澤」と書いていたのではないかと思い、あえて芹澤の表記で通しました。

 ところが・・・、何で読んだか忘れたが、「光治良」は実は「みつじろう」なんだそうである。誰も「みつじろう」と読んでくれず、「こうじろう」と言うものだから、本人も面倒くさくなって「こうじろう」で通していたらしい。う~む、苗字にも名前にもあまりこだわりはなかったのか。

 

*2)小谷野敦あたり、ノーベル賞委員会の選考資料(50年後に公開される)には芹澤の名前はなく、ノーベル賞候補だったというのは都市伝説だとしている(たぶん「日本文化論のインチキ」(2010年幻冬舎新書)で読んだんだと思う)。小谷野氏は、ある程度の資料を示したうえで、世間一般の見方に異を唱えるというスタイルの人で、それがまたいやみったらしい文章なもので、文は人なりという意味でいえば、芹澤とは反対の人格高潔ならざるタイプだろうな。おいらも少し似たところあるから気をつけんといかんな。

 

 

 芹澤文学の集大成ともいえる「神シリーズ」8巻が実は手つかずで手元にある。死ぬまでに読み終えたい。

 

芹澤光治良、青春に心を震わせた作家です。