今般のロシアのウクライナ侵攻を擁護するつもりは全くないが、それと個人レベルの政治信条、思想の自由、表現の自由とは別問題ではないのか。ウクライナ侵攻に対して批判的な発言をするよう事実上強制し、応じなければ解任というのでは、ロシアが行っていることと変わらないではないか。プーを擁護する、あるいは沈黙することがロシアの暴挙を支えることになるという理屈はわかる。だが、ヴォルテールの「あなたの意見には賛成できない。しかしあなたがそれを言う自由は命を懸けて守る。」の言葉こそが、「自由と民主主義、基本的人権という普遍的価値を共有する」開かれた国際社会を象徴するものではなかったのだろうか。時あたかも、男子フィギュアスケートの“皇帝”と呼ばれたエフゲニー・プルシェンコ氏が「プーチン大統領を信頼している」と発言したと伝えられる。これから彼は猛烈なバッシングにさらされるのだろう。彼ほどの人物であれば閉ざされた情報の中で生きているとは思えない。覚悟を持って発言したことは間違いないだろう。それを批判するのももちろん自由だが、恫喝、さらには脅迫となれば話は別だ。私は絶対的正義は人間の領域では存在しないと考える。だからこそ多様性の尊重という原理も受け入れる用意がある。それともこれはただのファッションなのか。プーによるファシズムを批判する「良識派」が、思想的ファッショに陥らないことを祈る。そもそもゲルギエフ氏を解任することが、ロシアあるいはプーにとってどれほどの打撃になろう。もっとプーに対して圧力をかけるために、じゃぁ、ゲルギエフ氏を投獄しよう、ということになったら、あなた賛成しますか。