2022年2月6日

いや〜またボロボロに泣いてしもうた。それほど登場する時間もセリフも多くないのに、加藤嘉(本作品の犯人である和賀永良=本浦秀夫の父親 本浦千代吉)の存在感はなんなのだろうか。
 シネマコンサートとは、映画の画像やセリフはそのままに、音楽部分を生のオーケストラが演奏するもの。映画とコンサートを一度に楽しめる、いわば一粒で二度おいしい、あるいは一石二鳥、一挙両得といった趣の催しである。個人的には初めての体験であった。今回の市原市市民会館での開催は、もともと2020年の3月に予定されていたのが、コロナ禍のためにずっと延期されていたもので、個人的に待ちに待っていたイベントである。

 オーケストラの生演奏がこれほど見事に映像にシンクロするのはさすがですね。感動しました、映画にも演奏にも。


 映画「砂の器」を見るのは少なくとも二度目である。一回目は最初の公開の時だから1974年のことだ。すでに松本清張の原作は読んでいたが、清張自身が評した通り、原作を超える出来であったように思う。後半、この映画のテーマ曲が流れるクライマックスに向けて、主役の西島警部補(丹波哲郎)が捜査会議において、和賀英良(加藤剛)の逮捕状請求の趣旨背景を説明する部分の演説がうるさいと感じたのだが、今回はそうでもなかった。ここまで音楽と映像が融合できている、音楽を主役にした映画はなかなかないのではないだろうか。主題曲は、ピアノと管弦楽のための組曲「宿命」として多くの演奏家が手掛け、さまざまなCDが出ている。音楽監督は芥川也寸志、楽曲の作曲、ピアノ演奏は菅野光亮が務めたことも公開当時から喧伝されていた。私の兄が、この映画のピアノの演奏場面、つまりピアニストの指先を見て「あれは女性の手だ」と言ったことを覚えている。あの丸まっちい、柔らかそうな、およそ加藤剛の手指には見えないあの指は菅野光亮のものだった。その菅野氏は1983年に44歳で死去。その訃報に接し、若い才能がなんと惜しいことかと残念に思ったことである。

 加藤嘉の存在感についてはすでに触れた。緒形拳(本浦父子を親身に世話する亀嵩駐在所巡査 三木謙一)はまた違った意味で存在感をぞんぶんに発揮している。高倉健はなにを演じても高倉健だし、三船敏郎は常に三船敏郎である。大竹しのぶが登場したら、役柄にかかわらずそれは大竹しのぶにしか見えない。そういう誰をも圧倒する存在とは異なる、いわば融通無碍、変幻自在の役者であった。本作におけるような限りない善意の人物であったり、「復讐するは我にあり」の凶悪犯であったり、大河ドラマでは弁慶も秀吉も大石蔵之介も自由自在である。「水は方円の器に随う」とは、やや趣旨が違うかもしれないが、この人こそカメレオン俳優と言うにふさわしい。

 渥美清は三木謙一が訪れる伊勢の映画館館主として、ごく脇役で出演している。映画公開当時、画面に登場した瞬間、劇場内に爆笑が起きた。俳優にとって幸せなことであったかどうかわからない。ただ、唯一無二、取り換えの効かない俳優であったことは間違いない。

 島田陽子は和賀英良の愛人 高木理恵子として出演、ベッドシーン(古い!)で薄い胸を披露している。ハリウッド映画 “将軍 SHOGUN” に出演して、「国際女優」として有名になるのは後の話。

 森田健作前千葉県知事(今西警部補の相方 吉村刑事)、若い!青春だぁ!!熱演でしたよ。

 丹波哲郎も熱演だった。こういう役柄にはよく合う。この人を始め、緒形拳、加藤剛、佐分利信(和賀英良の婚約者 田所佐知子(山口果林)の父親、元大蔵大臣 田所重喜)、加藤嘉、渥美清等々みな故人である。48年も前の映画であるから当たり前といえば当たり前だが、こうやって作品がきちんと継承されていくのは見る側にとっても幸せなことだ。

 

 本浦千代吉、秀夫親子が故郷を出て放浪の旅に出た理由が、その病気にあるという設定である。これを本作ではストレートに「ライ病」と言っていたのは時代考証上やむを得ないことか。今は「ハンセン(氏)病」というのが普通だ。「十戒」であったと思うが(「ベン・ハー」かもしれない)、キリストの奇蹟として有名な、病人の患部に触れるとたちどころに治ってしまうというエピソードがあった。これを日本のテレビ放送の際の吹き替えでは「レプラ」と言い換えていた。レプラはあまり一般的な名称ではないから、見る者がそのまま流すことを半ば期待してあえて使った言葉だろう。「砂の器」制作過程では、全国ハンセン氏病患者協議会から「病気に対する偏見、差別を助長する」との抗議もあったらしく、一部シナリオを変更するとともに、「映画上映により偏見を打破する役割をさせてほしい」と説得したという。映像の終わりに「ハンセン氏病は、医学の進歩により特効薬もあり、現在では完全に回復し、社会復帰が続いている。それを拒むものは、まだ根強く残っている非科学的な偏見と差別のみであり、本浦千代吉のような患者はもうどこにもいない」との字幕が流れたのはごく全うな処置であったと思う。

 

 最後に触れておかねばいけないのは、このシネマコンサートは500円というタダみたいな値段であったことである。「映画 『砂の器』 シネマ・コンサート2022」(BS朝日、朝日新聞社ほか)は東京公演(1月9日東京国際フォーラム)はS席9,800円、A席7,800円、大阪公演(2月28日フェニーチェ堺)ではS席8,800円、A席6,800円である。今回の市原市市民会館での開催は指揮;竹本泰蔵、ピアノ;近藤嘉宏で大阪会場と同じ、オーケストラは東京フィルハーモニー交響楽団で東京会場と同じという布陣で全く遜色ない。市原公演の主催者は公益財団法人市原市文化振興財団ということで、その予算がつぎ込まれているのだろうが、大阪公演にしても主催者の一部として公益財団法人堺市文化振興財団が名を連ねている。東京や大阪はほうっておいても文化事業には人が集まるから、ある程度の料金設定で集客と採算のバランスをとる趣旨なのか。美術展の巡回で、東京と地方の料金の差を見ていつも思うのだが、ちょっと田舎をバカにしてませんかね。安いのはいいんだけど・・