今週月曜日に1990年のハリウッド映画”Good Fellas”を見た。 

 全国的に「午前十時の映画祭11」が開催されていて、過去の名作をリバイバル上映するという企画である。正直言ってどうしても見たいという映画はないが、本編はたまたま時間が空いていたのと、マーチン・スコセッシ監督、ロバート・デ・ニーロ主演というので興味が引かれ、見ることにした。

 感想は・・まぁ、ヤクザ映画は好みではないのでやはりダメだった。くわえて、やたらナレーションが多用されていて、これは脚本さぼったなという印象が強い。デ・ニーロの存在感はある。ジョー・ペシもいつも通り存分に個性を発揮している。でも、昔見た”Once upon a time in America”(1984年)と同じような雰囲気だった。この“Once upon a time in America”は英語の発音をあえてカタカナで書けば「ワンサポナタイムイナメリカ」となるところだが、公開当時さんざん放映されていたTVコマーシャルでは、「わんす あぽん あ たいむ いん あめりか」と重々しい男声ナレーションが流れ、違和感が強烈だったのも懐かしく思い出される。今回の“GoodFellas”も日本語タイトルは「グッドフェローズ」となっており、ちょっと雰囲気が違うんでないの、と思わざるを得ない。Good Fellas は、もちろんGood Fellowsのくだけた言い方だが、単純に同じ意味ではない。ギャングの世界でGood Fellowsが使われることはまずないから、これは日本映画界の慣行(単語のくだけた形を使用しない)の硬直性の悪例である。

 

 

 ジョー・ペシ始め、four letter wordsの連発で、さすがにちょっとどうよ、という気分にさせられた。1950年代から1980年ごろの時代を描く物語で、そういう時代背景はあるにしても、ユダヤ人、黒人に対する差別発言もオンパレードで、こういうとき紙の本であれば「本作品中には、今日では不適切とされる語句や表現がありますが、舞台となる時代背景を鑑み、あえて使用しています。」という断り書きを添える。映像作品ではあまりそういうお断りを見たことがないように思うがそれはどうなのだろう。

 タイトルが違うといえば、たとえば「ショーシャンクの空に」は原題は“Shawshank Redemption”で直訳すると「ショーシャンクの贖い」になるのだが、実はこれはスティーブン・キングの短篇小説「刑務所のリタ・ヘイワース」(Rita Hayworth and Shawshank Redemption)を原作としている。日本では考えられないが、アメリカの独房では、壁にポスターを貼ることは許されているらしい。1940年代のセックスシンボル、リタ・ヘイワースのピンナップを毎晩はがして壁に穴を掘り、20年かけて脱走するというお話。それで「刑務所のリタ・ヘイワース」という題名になった。あの短篇を2時間超の映画に翻案する脚色の力は大したものだ。この映画もモーガン・フリーマン演じる準主役のナレーションがやたら多いが、これは特に邪魔にならなかった。

 サンドラ・ブロックがアカデミー主演女優賞を獲った「ゼロ・グラヴィティ」。これは原題は“Gravity”で全く真逆の意味になる。訳わからん。この映画はほぼサンドラ・ブロックの一人芝居で、ジョージ・クルーニーが色を添える程度。ヒューストンの管制官の声だけでエド・ハリスが出演していて、彼は「アポロ13」でやはりNASAの管制官役で出演していて、これってけっこう意識していたのかなと思う。

 ヤクザ映画の話のはずだったので、もうひとつ。松田優作の遺作となった「ブラック・レイン」。これはマイケル・ダグラスと高倉健という日米二大スターの共演が売りだったはずだが、完全に松田優作が二人を食っていた。この撮影当時すでに膀胱ガンに侵されていることを知るが、そのまま撮影を続けたという。私がこの映画をヒューストンで見たときは、すでに松田は亡くなっていた。息子である龍平と翔太にその面影を見るとき、今生きていればどんな俳優になっていただろうと、思いを馳せるばかりである。